今回ご紹介するのは、『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』です。著者は生まれつき重度の聴覚障害がある、牧野友香子さん。現在は、ご主人と2人の娘さんと共にアメリカで暮らしています。
牧野さんがこれまでの人生で一番大変だったのは、「長女に難病があったこと」だと言います。家族の支えもあり、長女も大きな手術を乗り越え、そろそろ職場復帰を考えたいと思っていた矢先、医師から言われた衝撃的な言葉についてご紹介します。その経験を通し、社会のサポートが整っていないことを痛感したという牧野さん。今につながる出来事とは……?
はじめに
私は、生まれた時から耳が聞こえません。補聴器をつけても、人の声はほぼ聞こえません。補聴器を外すと、飛行機の轟音(ごうおん)も聞こえるか、聞こえないかくらい。
会話は手話ではなく、「読唇」といって相手の口の動きを読み取って理解し、自分自身の発音でことばを発する「発話」なんです。
大阪で生まれ育った私は、ろう学校には行かず、幼稚園、小・中学校は地元の学校に。天王寺高校から、神戸大学に進学し、就職先は第1志望のソニー株式会社へ。趣味の合うファンキーな夫と結婚し、めでたく2人の子どもにも恵まれ……と文字で書くと順風満帆なようですが、聞こえない私の人生、そんな順調にいくわけがありません。
一番大変だったのは、長女に難病があったこと。聞こえない中での2歳差の姉妹の育児、仕事をしながらの病院通い。でも、複数回にわたる手術に入院と頑張る長女。そして、どうしても我慢の多くなる、“きょうだい児”の次女のしんどさを思うと、親として弱音を吐いてばかりはいられませんでした。
そんな中で長女が2歳、次女が0歳の時に、難聴児を持った親御さんをサポートする「株式会社デフサポ」を立ち上げ、今では子どもたちを連れて家族で渡米。アメリカで生活をしています。いろいろな意味で“規格外”の私ですが、いいこともそうでないことも含めて、おもしろく読んでいただけたらうれしいです。
『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』「はじめに」より一部抜粋
「お母さん、仕事辞めますか? 」「僕が専業主夫になります」
長女は常に病院に通うような状態だったのですが、その合間にみんなと同じように定期検診もありました。強く記憶にあるのは、6カ月検診の時。他の赤ちゃんもたくさん区役所に来るんですよね。「みんなの赤ちゃんは健康でいいなあ……」という思いが、どうしてもぬぐえなくて。
周りの赤ちゃんは寝返りしたり、健康そうなのに、我が子はいろいろ大変……。それを見るのもつらいし、その事実を突きつけられるのもつらい。また、周りは遠慮して、長女の病気についても聞いてこないですし、かといって自分から言いまくるのも気を遣わせそうだし。
「検診になんて行きたくない、人に会いたくない」八方ふさがりのつらさでした。児童館などの人が集まる場所には、一度も行かずに終わりました。
私は育休を取っていたのですが、首の大手術も終え、そろそろ保育園のことや職場復帰を考えたいなと思うタイミングが来ました。当時住んでいたところはまさに保育園の激戦区。生後すぐに保育園を見学して、生まれた年の秋には願書を出さなくてはいけなかったのです。
そこで、医師に保育園のための診断書を書いてもらえないかと相談しました。
すると、
「お母さん、仕事するんですか!?」
……えっ?
「この子は、難病があるから、どういう発達をするかわからないし、家で見てあげないと」
……ええっ!? 保育園はナシなの⁉ 私、仕事辞めないといけないの!?
いろんな思いが頭の中を駆け巡りました。
「えーっと、……そしたら、夫が仕事を辞めます」
と、私の口がつい……。
突然そう言った私に、夫は「ええ! 俺!?」と言いながらも、
「そうですね! 僕が専業主夫になります」
と言い切りました(この時ばかりは、我が夫に改めて惚れ直しました)。
すると先生はあわてて、
「え、旦那さんが仕事を辞めるんですか? それは大変ですよね。ちょっと別の方法も考えてみましょう」
と、一気に風向きが変わりました。

紆余(うよ)曲折あったのですが、結果的に子どもを通わせたいと思える保育園が見つかり、そこに行かせていただくことができました。長女と次女と8年間お世話になったのですが、先生方には感謝しかありません。その保育園に通えたことは、本当にいい思い出です。
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