初代山形藩主・最上義光の研究で知られる松尾剛次・山形大名誉教授(日本中世史)が、山形市の同大小白川キャンパスで最新の研究成果について講演した。出羽国(山形、秋田県)を巡って対立した武将・白鳥長久との争いについて紹介し、残虐非道との義光のイメージに一石を投じる内容だ。義光と長久の関係について語る松尾名誉教授(11日、山形市小白川町で)義光と長久の関係について語る松尾名誉教授(11日、山形市小白川町で) 講演会は「最上義光研究最前線」と題して11日に開かれ、市民ら約100人が耳を傾けた。

 長久は、陸奥の豪族・安倍氏の子孫とされ、平安時代後期に一族が現在の村山市などに潜伏。永禄年間(1558~70年)頃に谷地城(河北町)に進出した。義光とは出羽国の支配を巡って対立していた。松尾名誉教授は「白鳥は相当な金持ちで、京都の公家と
蹴鞠(けまり)
を通じて交友関係を築く実力者。義光にとって面白くない存在だった」と解説した。
 通説では、義光が重病を装い、長久をおびき出して謀殺したとされ、こうした策略から義光には残虐非道のイメージがついた。
 しかし長久は当時、天下人だった織田信長と親しくなるため、出羽の
主(あるじ)
だと身分を偽った書状を送っていた。松尾名誉教授は、県立図書館所蔵の伝記「最上物語」に注目。江戸時代の成立とみられる同物語には、信長が「白鳥の人を欺く罪は重く、即刻滅ぼせ」と命じたとの記述があるといい、義光は命令を受けて実行したとも考えられるという。
 謀殺の時期については、本能寺の変(1582年)の後で豊臣秀吉に権力が移り変わる1584年とし、「世の中が混乱した権力の空白期に乗じて実行したのだろう」と述べた。 その後、義光は戦国時代を生き抜き、初代山形藩主として全国有数の57万石の大名となり、山形城を整備して現在の山形市の礎を作った。 松尾名誉教授は「史料では白鳥謀殺が義光の優れた策とされている。現代の価値観で非道とされることも、当時は有力な手段だった」と語った。