人々搦めとる「黒い福音」評・小泉悠(安全保障研究者・東京大准教授)◇Mike Rothschild=Qアノンに詳しいジャーナリスト。ニューヨーク・タイムズやCNNへのコメンテーターでも知られる。◇Mike Rothschild=Qアノンに詳しいジャーナリスト。ニューヨーク・タイムズやCNNへのコメンテーターでも知られる。
 世界は腐敗したエリートの集合体ディープステートによって支配されている。トランプ前大統領はこれに対抗する善の勢力を代表しており、両者は今も目に見えない
密(ひそ)
かな戦争を続けているのだ――本書が対象とする陰謀論、いわゆるQアノンの世界観を要約すると大体こうなろう。はっきり言って荒唐無稽である。

『ハクビシンの不思議』増田隆一著

 だが、米国では多くの人々がこのストーリーに心酔し、社会から孤立したり家族が崩壊したりする事例が続出した。本書が特に重視するのは、2021年の連邦議会議事堂占拠事件だ。選挙が不正であるとして議事堂に乱入した人々のかなりの割合が、Qアノンの信奉者だった。
 人々はなぜ陰謀論にハマるのか。本書では陰謀論にハマった当事者やその家族の生の声が数多く紹介されているが、ここからは一定の傾向が
見出(みいだ)
せそうだ。もともと人付き合いに向かないパーソナリティであるとか、生活に問題を抱えているという人が非常に多いのである。

 そうした現実は間もなく全て変わる。あなた方を苦しめているのはディープステートであり、連中は一斉逮捕されて、新しい善の世界がやってくる、とQアノンは
囁(ささや)
くのだ。この黒い福音は、少なからぬ人々を
搦(から)
めとった。
 さらに本書は、大衆運動としてのQアノンの性格に着目する。17年に出現して以降、Qアノンは驚くべき速度でアメリカ社会に浸透した。興味深いのは、そこには明確な組織や指導者が存在したわけではないということだ。あるのは人々がネット掲示板で作り上げた世界観であり、それゆえにQアノンは簡単に滅びない。この世界観を人々が信じている限りは。 ただ、21年にバイデン政権が成立し、Qアノンの偶像であったトランプは大統領を退いた。従って運動の勢いは衰えていくだろうとの期待が本書では示されているが、今年の大統領選では、そのトランプが政権復帰を目指している。こうした中でQアノンはどうなっていくのか。驚くべき回復力がQアノンの大きな特徴である、という本書の議論は不気味な予言にも見える。烏谷昌幸、昇亜美子訳。(慶応義塾大学出版会、2970円)

読書委員プロフィル

小泉 悠(
こいずみ・ゆう

 1982年生まれ。安全保障研究者・東京大准教授。専門はロシアの安全保障・軍事政策。『「帝国」ロシアの地政学』でサントリー学芸賞を受賞。