年に一度、フランス中の扉が開く週末
9月の第3週末、フランスでは普段は入れない場所の扉がいっせいに開く。ヨーロッパ遺産の日(Journées européennes du patrimoine)だ。始まりは1984年、フランス文化省が企画した「歴史的建造物の一般公開日」。これが好評で、やがて欧州評議会が引き取ってヨーロッパ全体の催しになり、いまでは約50か国が参加している。大統領府も省庁も、個人所有の城館も、この2日間だけは無料か、それに近い形で人を迎え入れる。
43回目となる2026年は9月19日と20日。テーマは2つあって、写真誕生200年にちなんだ「写真の遺産」と、ヨーロッパ共通の「危機に瀕する遺産」。後者には「よみがえらせる、抗う、思い描き直す」という副題がつく。
僕が日曜に向かったのは、住んでいるサン=ジェルマン=アン=レーから森をひとつ抜けた先、メゾン=ラフィットの城である。この日だけ、城のテラスと庭に古い車が並ぶと聞いたからだ。
マンサールの最高傑作と、壊された厩舎
城の主はルネ・ド・ロングイユ。パリ高等法院の高官で、サン=ジェルマンとヴェルサイユの総督も務めた人物だ。設計はフランソワ・マンサール。現地の案内板は完成を1646年としている。中央棟と両翼の量感の出し入れだけで奥行きを作り出す正面は、フランス古典主義の教科書のような姿で、後のヴェルサイユへと続く流れの出発点に立つ建物と言っていい。1651年4月20日、13歳のルイ14世が母アンヌ・ドートリッシュと共に落成の宴に招かれている。
セーヌに向いた庭側のファサード。中央の階段に集まっているのは車のオーナーたちで、記念撮影の直前だ。パリ高等法院の高官ルネ・ド・ロングイユが1642年頃からフランソワ・マンサールに建てさせ、1651年4月20日、13歳のルイ14世が母アンヌ・ドートリッシュと共に落成の宴に訪れた。3層の壁面に下からドリス、イオニア、コリントの3つのオーダーを重ねる構成はここで完成され、ヴォー=ル=ヴィコントを経てヴェルサイユへ受け継がれる。ルイ14世はここで働いた彫刻家と装飾家をヴェルサイユに呼び寄せ、建築家にはマンサールの大甥ジュール・アルドゥアン=マンサールを使った。同時代の中傷文書『ラ・マンサラード』は、2階まで建てたところで設計の誤りに気づき全て壊してやり直した男だと建築家を罵っている。マンサールの作品で内装が丸ごと残っているのはこの城だけだ。目の前の大花壇は19世紀以降に埋もれ、1955年から67年にかけて15,000立方メートルの土の下からテラスの基礎と階段、水盤が掘り出された。
1777年、城はルイ16世の弟アルトワ伯、のちのシャルル10世の手に渡る。「鏝(こて)への断固たる嗜好」と同時代の回想録に書かれたほどの建築道楽で、バガテルの館を建てたのと同じ年だ。お抱え建築家フランソワ=ジョゼフ・ベランジェが内装を新古典様式に改め、1781年と1783年には国王の宮廷を迎える大きな宴が開かれた。
革命後はナポレオンの盟友ランヌ元帥が買い、1818年に銀行家ジャック・ラフィットの所有になる。町の名に残るこの人物が、城にとっては功罪の両方を背負っている。事業に行き詰まったラフィットは1830年代に広大な庭園を分譲地として切り売りし、買い手を呼び込むために大厩舎を取り壊して、その石を建材として安く売った。いま城のまわりに広がる緑の多い住宅地「パルク」は、その分譲の名残である。
最後の個人所有者は、サンクトペテルブルク生まれの画家ヴィルヘルム・ティルマン・グロメ。1877年に城に入り、フィンランドの画家たちを招いて制作の場にしたが、維持費で財産を使い果たし、1900年に亡くなったとき城は空っぽで借金まみれだった。そして1905年、取り壊し寸前のところを国が買い取る。「危機に瀕する遺産」という今年のテーマは、この城自身の来歴でもある。
館の中で
無料開放の館内は、家族連れがのんびり歩いている。2004年から2006年の発掘で本来の姿が分かった浴室には、深さ1メートルの多葉形の浴槽が残り、主人の寝室と王の寝室の両方から小さな階段で降りてこられる造りだった。湯は赤銅の蒸留器のような炉で沸かしたという。
2階の大広間には、ラフィットが注文したイタリア風景の大画面が並び、その先のヘラクレスの間には戴冠式装束のルイ14世が掛かる。1階のアルトワ伯の食堂には朝の食卓が整えられ、その真下の厨房には17世紀の宴の皿が再現されている。書棚に囲まれた質素な机で書類に埋もれるルイ18世の肖像は、宮廷画家ジェラールの原画だ。この城の主だった弟アルトワ伯が、翌年その王位を継ぐことになる。
2階の大広間。接客と舞踏と宴のための部屋で、ここから「王の居室」が始まる。梁を見せるフランス式の天井に対して丸天井を架けたことから「イタリア式の居室」と呼ばれた。奥の大鏡は部屋の反対側を映して長い回廊の錯覚を作る仕掛けで、一瞬どちらが本物か迷わせる。その鏡の上が楽団の桟敷だ。鏡に映る楕円の肖像は、古代の凱旋門を模したアーケードの先、隣室ヘラクレスの間のルイ14世である。壁を埋める6点のイタリア風景は、もとは17世紀のタピスリーが掛かっていた場所に、1818年に城を買った銀行家ジャック・ラフィットが翌年注文したもの。新古典主義風景画の総帥で若きコローの師でもあったジャン=ヴィクトル・ベルタンと、風景画家として初めて学士院に入ったジャン=ジョゼフ=グザヴィエ・ビドーの手になる。バイヨンヌの大工の息子から身を起こしてフランス銀行総裁になったラフィットにとって、元王族の城でパリの社交界を迎えることは「成り上がりの夢」そのものだったと言われる。
鏡の前に据えられたルイ13世の胸像。襞襟と口髭、胸に下がる聖霊騎士団の首飾りがこの王の印だ。城はこの王の治世に着工された。隣のサン=ジェルマンは王が最も愛した狩りの拠点で、施主ロングイユはその城とヴェルサイユ、当時はまだルイ13世の小さな狩猟小屋にすぎなかった館の総督を兼ね、狩りの帰りの王を迎えるためにこの家を建てた。1階の自分の寝室の暖炉には、彫刻家ジル・ゲランに月桂冠のルイ13世と鎖に繋がれた捕虜を刻ませ、王が得た諸州を捕虜の姿で足元に並べている。だがルイ13世は1643年に没し、1646年の竣工を見ることはなかった。用意された王の居室に最初に泊まったのは、13歳の息子ルイ14世である。
王の居室の奥にある「イタリア式大キャビネ」の円蓋。持ち送りの帯で縁取った円蓋を、青い人像柱の帯を巡らせた太鼓壁が支える、17世紀パリで最新だったイタリア風の構成で、王の寝室とヘラクレスの間の両方から小さな前室を経て入る接客用の小部屋である。目を凝らすと装飾のあいだに蔦の枝が絡んでいる。城の主ロングイユは1622年に13歳の従妹マドレーヌ・ブーラン・ド・クレーヴクールと結婚し、妻は1636年、4人目の子を産んだ直後に26歳で死んだ。夫は再婚せず、妻の遺産で城を建て、その城を丸ごと妻への追悼にした。玄関の柱から天井の隅々まで、二人の頭文字を組んだ文字と、妻の紋章の大麦の穂、夫の紋章の薔薇が繰り返され、蔦は貞節の印だ。着工は妻が死ぬ直前の1634年。マドレーヌはこの家に一度も住んでいない。
王の寝室の前室、ヘラクレスの間の暖炉。名の由来は、もとここに掛かっていた「ヒュドラを倒すヘラクレス」の絵だが、今あるのはリゴーが1701年に描いた「戴冠式装束のルイ14世」の複製である。入れ替えは案外筋が通っていて、リゴーが王に取らせた左脚を前に出すポーズは、1686年にヴィクトワール広場に建てられたデジャルダンの像から借りたもので、その像では王がまさに足元のヒュドラを踏み潰していた。絵では怪物が消え、若い頃に舞踊で鳴らした王の脚だけが残っている。原画は孫のスペイン王フェリペ5世への贈り物として注文されたが、王は出来映えが気に入って手元に置き、複製をマドリードへ送った。この城には13歳のときに初めて訪れている。両脇で果物の籠を掲げる2体の女像柱は、城の彫刻を監修したジャック・サラザンの工房の仕事だ。
館内に掛かる「テュイルリー宮の執務室のルイ18世」。ナポレオンの宮廷画家からブルボン家の首席画家に転じたフランソワ・ジェラールが1823年に描いた原画で、ヴェルサイユにある同じ構図の絵はこれを写した複製である。王は寵姫デュ・ケラ伯爵夫人のサン=トゥアン城の大広間のためにこの絵を贈り、伯爵夫人の娘が嫁いだロレーヌのアルエ城を経て、国の所蔵になった。書棚に囲まれた質素な白木の机は、亡命中の1801年にワルシャワで使い始め、クールラントを経てテュイルリーまで持ち歩いた王の愛用品で、画家は宮殿の金箔ではなく、書類に埋もれた老王の執務室をそのまま描いた。翌1824年、王はテュイルリーで没し、この城の主だった弟アルトワ伯がシャルル10世として王位を継ぐ。メゾンにこの絵がある理由は、そこにある。
アルトワ伯の大食堂に整えられた朝の食卓。木の柄がついた白磁の壺はショコラティエール、ココアを泡立てる棒を差し込むための朝の道具だ。この部屋は伯が1777年に城を手に入れたあと、建築家ベランジェに厨房の真上に作らせたもので、コリント式の円柱と四季を表す4体の像、ピラネージの弟子リュイリエの石膏装飾が、マンサールの白い階段室と調和するよう色を抑えて仕上げられている。伯の財布が底をつき1781年に工事が止まったため、大理石の代わりに石膏のままの箇所が残る。伯の兄ルイ18世は、自ら「肘掛椅子の王」と呼んだほど太って痛風を病んだ大食漢だった。朝食には骨を外した仔羊のコートレットを貪り、侍医は元修道士の大酒飲みで止める者がいなかった。好物のデザートは苺に砂糖とクリーム、シャンパーニュをかけた「フレーズ・ア・ラ・キュシー」。考案したキュシー侯爵はナポレオンの元式部官で、王は最初この男を疑ったが、この一皿で許したという。
2021年には、巻かれたまま収蔵庫で忘れられていたグロメの大きな油彩が7点見つかった。青空を背にした古代の女神たちで、かつては2階の「鏡の間」で、外された鏡の代わりに壁を飾っていたものだ。城の友の会の支援で修復され、館内に戻っている。
蝶の羽を持つ左の女神はプシュケ。城の最後の個人所有者、画家ヴィルヘルム・ティルマン・グロメが自ら描いた7点のうちの2枚で、2021年に収蔵庫で巻かれたまま見つかった。もとは2階の「鏡の間」で、外された鏡の代わりに壁を埋めていた青空の女神たちである。グロメはサンクトペテルブルク生まれ、バルト海のユグノー商人の家の相続人で、1877年に80万フランで城を買った。芸術家こそマンサールの城を一番よく味わえると考え、1882年には旧友の画家アドルフ・フォン・ベッカーを招き、若きアルベルト・エーデルフェルトとグンナル・ベルントソンも城と庭を描いて過ごした。だが城の維持で財産を使い果たし、1900年に死んだとき城は空っぽで借金だけが残った。遺言で全財産をフィンランドのヴィボルグ市に遺贈したが、市は絵を残し城は売り、5年後に国が取り壊しから救うことになる。青空を背にした裸の女神という主題は、彼が育ったサンクトペテルブルクの宮殿を飾っていた帝政様式の記憶だ。
食堂の真下にある厨房。テーブルに並ぶ七面鳥やオマール、砂糖菓子の塔は展示用の作り物だが、17世紀の「フランス式サービス」の再現である。当時の宴では一皿ずつ料理が運ばれるのではなく、ポタージュ、アントレ、ロースト、デザートの各段階で客の人数と同じ数の料理が一斉に卓に並べられた。1674年の料理書は、皿は客の腹を満たすためでなく食卓を飾るためにあると書いている。この城が落成した1651年は、ラ・ヴァレンヌの『フランスの料理人』が出た年でもある。中世の香辛料漬けの味と決別し、ブイヨンとバターとハーブを基本に据えた最初のフランス料理の教科書で、ロングイユの食卓はまさにその転換期にあった。18世紀にアルトワ伯がこの真上に食堂を作ったのは、階段ひとつで温かい料理が届く合理的な配置だ。暖炉の奥に立つ鋳鉄の背板は熱を部屋に返し壁を守るためのもので、紋章を鋳込むのが習わしだった。
この日は庭園の北西の端にある「カーヴ・デュ・ノール」も公開されていた。名前は地下蔵だが実際は蔵ではない。1660年からマンサールがロングイユのために築いた狩猟用の館群と空堀の跡で、サン=ジェルマンの森に向かって開く「王の入口」だった。革命後に少しずつ消え、いまは馬蹄形の壁と2つの稜堡、館がひとつ残るだけ。2024年に遺産くじの支援対象に選ばれ、修復が進んでいる。
なぜ、城に車なのか
正直に書くと、この城と自動車のあいだに歴史的な縁はない。車を並べたのは地元の旧車クラブ、EVAMM(メゾン=ラフィットとル・メニル=ル=ロワの旧車エキュリー)で、城と友の会との共催だ。毎月最終日曜の午前、町の競馬場の駐車場に30年以上前の車とバイクが集まる。その延長が、年に一度だけ城のテラスに上がってくる。
ただ、クラブが名乗る「エキュリー」は、もとは厩舎を指す言葉だ。メゾン=ラフィットは1878年に競馬場が開いて以来「馬の街」と呼ばれ、いまも住宅地の並木道を調教帰りの馬が歩いている。ラフィットが石にして売ってしまった大厩舎の跡地のすぐそばで、町の人たちが自分の「厩舎」から古い車を引き出して並べる。そう思って眺めると、ただの近所の集まりが少し違って見えてくる。
クラブが目的に掲げるのは、自動車という遺産の保存と、世代をつなぐこと。国が救った城と、個人が救った車。規模はまるで違うが、やっていることは同じである。
会場の車たち
テラスに並んだのは、1948年のトライアンフ1800ロードスターに同じ年のモーリス・エイト、フルシャンボー生まれのヴェスパ400、ファセルが手叩きで作ったシムカ8スポール、右ハンドルのまま大西洋を渡ったMG TCに、その大西洋から里帰りしたEタイプV12。庭の並木道には、13か月だけ作られたトライアンフTR5とMGBが木陰に収まっていた。どの1台にも、フロントガラスの内側にクラブが用意した技術カードが挟まれている。
1948年製モーリス・エイト・シリーズE。1934年にフォード・モデルYに対抗して生まれたモーリス・エイトを、1938年10月に大きく作り直したのがシリーズEで、ランニングボードを捨て、ヘッドランプをフェンダーに埋め込み、「滝」と呼ばれる縦格子のグリルを与えた。もっともこのグリルはダミーで、本物のラジエーターはその奥に隠れている。918ccのサイドバルブ4気筒は29馬力、最高速度98km/h。戦時中も軍用に生産が続き、戦後の再開時は黒一色しか選べなかった。1948年はシリーズEの最終年で、同じ918ccエンジンをそっくり受け継いだイシゴニス設計のモーリス・マイナーに席を譲る。ちなみにこのエンジンは後にセンチュリオン戦車の補助動力にも転用された。シリーズEは10年間で120,434台。「BH-14-94」は1950年代のオランダ式のナンバーで、この個体はオランダで長く暮らしていたのだろう。
パリ登録の「400 JZ 75」のナンバーが洒落ている1960年製ヴェスパ400。設計はイタリアのピアッジョだが、生まれたのはニエーヴル県フルシャンボーで、正確には「フランス車」である。ピアッジョは1953年からスクーターの次に乗る小型車を開発していたが、フィアットが新型500の脅威とみて下請け各社に圧力をかけ、イタリアでの生産は不可能になった。そこで1950年からヴェスパのスクーターをライセンス生産していたACMAの工場に製造を委ね、イタリア市場は諦めた。1957年9月26日にモナコでプレス発表、翌月のパリ・サロンで公開。空冷2ストローク2気筒393ccをリアに積み、給油のたびにオイルを混ぜる必要があった。前のグリルはダミーで、その裏にバッテリーが収まる。1958年には12,130台を売ったが翌年から失速し、1961年までに約3万台で生産を終えた。この1960年は7,177台の年である。
1951年製シムカ8スポール・カブリオレ。線の出所はイタリアで、ピニンファリーナがチシタリア202のスタイルをフィアット1100Sのシャシーに引き直した提案を、シムカ社長アンリ・ピゴッツィが気に入って買い取り、1948年のパリ・サロンに出したのが始まりだ。ただしナンテールの工場は次期アロンドの準備で手一杯で、製造はドルーのファセル=メタロンに委ねられた。ボディは鋼板とアルミの手叩きで、この仕事を仕切ったジャン・ダニノスが1954年に世に出すのがファセル・ヴェガである。エンジンはシムカ8の1221ccを圧縮比とバルブで50馬力に高めたもので、最高速度135km/h。1951年のツール・ド・フランス・オートで4台が完走し、翌年のモンテカルロで3位に入る程度には走った。横5本のグリルは前期型の印で、1951年10月からV字の3本に変わる。1952年4月にシムカ9スポールに交代するまでクーペとカブリオレ合わせて5,165台。
1948年製MG TCのコクピット。運転席の正面に据わる大きな計器は速度計ではなく回転計で、速度計は助手席の側にある。戦前のトライアルで助手席のナビゲーターに速度を読ませた時代の名残だ。銘はイエーガー。パリの時計師エドモン・イエーガーが第一次大戦中にフランス軍機のために作ったクロノメトリック式の回転計が起源で、時計の機構で一定時間ごとに回転を数えるため針が刻むように動く。英国の関税を避けて1921年にロンドンに設けた子会社を1927年にスミスが買い取り、以後「ブリティッシュ・イエーガー」の名で英国車のほぼ全てに計器を納めた。MGのTシリーズには1952年頃までこのイエーガーが標準だった。TCは戦争が終わって5週間後の1945年10月に出た戦後最初のMGで、中身は1939年のTBそのもの。1250ccを54.5馬力に高め、車体を4インチ広げた以外はほぼ手つかずだったが、全車右ハンドルのまま約2,000台が米国に渡り、アメリカのスポーツカー市場を作ったと言われる。1949年11月までに10,001台。
ジャガーEタイプ・シリーズ3、V12の2+2クーペ。左ハンドルと前後の琥珀色のサイドマーカー、バンパーの大きなオーバーライダーが北米仕様の印で、Eタイプの4分の3が渡った先から里帰りした個体だろう。シリーズ3は1971年6月、新しい5.3リッターV12を披露するために生まれた。ル・マン用に作りながら走らせずに終わった試作車XJ13のために開発された60度SOHCのV12で、ストロンバーグ4連キャブで272馬力。直列6気筒より速くはならなかったが、タービンのように滑らかで、Eタイプの性格をスポーツカーからグランドツアラーへと変えた。幅の広いトレッドを収めるためにホイールアーチが張り出し、グリルは格子になり、マフラーは4本出し。2座クーペは廃止され、この2+2クーペとロードスターだけになった。2+2クーペは1973年8月までに7,299台、うち左ハンドルが5,183台。
庭園の並木道に並んだ車たち。手前の赤い車はトライアンフTR5か、その北米版TR250。1967年8月から翌年9月までの13か月間だけ作られた過渡期のモデルで、ミケロッティが線を引いたTR4のボディに新しい2.5リッター直列6気筒を収めた。ルーカスの機械式燃料噴射で150馬力、「燃料噴射を備えた最初の英国製量産スポーツカー」と自ら名乗った車である。ただし北米の排ガス規制には燃料噴射が通らず、あちらではツインキャブの104馬力に落としたTR250として売られた。TR5が2,947台、TR250が8,484台で、TRシリーズで最も数が少ない。1968年9月、カルマンが前後を手直ししたTR6に席を譲る。奥に見える橙色はMGB、その先の白はポルシェ911の初期型。
城の裏の1台
テラスの賑わいを離れて城の裏手にまわると、1台だけ、別格の扱いで置かれた車があった。フォード・モデルT「スピードスター・クンペルK9」、エンジン番号851802。1915年製、2.9リッター4気筒。1922年にスピードスターへ改造されている。
1915年製フォード・モデルT「スピードスター・クンペルK9」、エンジン番号851802。1922年、セントルイスの鉄工所メスカー・ブラザーズの跡取りフランシス・メスカーが16歳の誕生日にこの車を与えられ、家業を継ぐ前の修業として指導役の下で自らスピードスターに組み替えた。ボディはアイオワのクンペル社が6ドル40セントで売っていた実寸型紙「Red-I-Kut」から起こしたもので、現存するK9はこの1台のみとされる。アンダースラングの足まわりはモートン&ブレット、ワイヤーホイールはハウス、前輪スピンドルはラジョと、当時の通販広告の部品で固めた構成だ。完成後は仕舞われたまま100年で走行数十キロ、一度も分解されていない。赤い塗装は1980年代のセントルイス交通博物館時代のもの。2005年に博物館を出て、2022年に初めて公道を走った。
グリル上の赤と水色の地球儀は、1934年にトライアンフが乗用車用として定めたバッジで、1953年までは必ずラジエーターグリルの中央に付いていた。この車は1948年製トライアンフ1800ロードスター。1944年に破綻したトライアンフをスタンダード社が買い取り、ジャガーに対抗するべく1946年に出した戦後最初のトライアンフだ。エンジンは戦前からSSジャガー1½リッターに供給していたスタンダード製1776cc OHV4気筒、65馬力。ボディはトネリコの木骨にアルミ外板で、戦後の鋼材不足を補うため、戦時中にモスキート爆撃機の部品を作っていたゴム製プレス型を転用して成形された。後ろには専用風防つきの折り畳み式ディッキーシートがあり、量産車としてはこの形式を採用した最後の車になった。1948年9月に2088ccの2000ロードスターへ切り替わったため、1800は2年間で2501台のみ。
経緯が面白い。セントルイスで建築用の装飾鉄製ファサードを全米に通販していたメスカー・ブラザーズ・アイアン・ワークスの跡取り、フランシス・メスカーが16歳になった1922年、父ジョンが「金属と機械を体で覚えろ」と、指導役をつけてこのT型を改造させた。ボディはアイオワの金物商クンペルが6ドル40セントで売っていた実寸型紙「Red-I-Kut」から木骨と外皮を起こしたもので、足まわりはインディアナポリスのモートン&ブレットのアンダースラング部品、ホイールはハウス製のワイヤー、前輪にはラジョ製の「セルフステアリング」スピンドル。当時の自動車誌の広告欄がそのまま走っているような構成だ。
完成した車は乾いた場所にしまわれ、100年で走行は数十キロ、一度も分解されていない。1980年代にセントルイスの交通博物館に寄贈され、2005年に博物館を出て、2022年に初めて公道を走った。1922年に16歳の少年が組み上げ、そのまま100年しまわれていた車が、17世紀の城の陰に黙って座っている。「遺産の日」にいちばんふさわしい展示は、案外この1台だったのかもしれない。
庭をひとまわり
表に戻ると、ちょうど車の紹介が始まっていた。1台ずつ名前と年式が読み上げられ、呼ばれた車がエンジンをかけて、円形の水盤を回りながら庭をゆっくりとひとまわりする。速さを競うわけでも、審査員が点をつけるわけでもない。持ち主が窓から手を振り、見物の子どもが手を振り返す。それだけのことだ。
城の2階から見下ろしたテラスと大花壇。午後になると車が1台ずつ紹介され、車名と年式が放送で読み上げられるたびに、呼ばれた1台が円形の水盤を回ってゆっくりと庭を一周する。手前左のジャガーEタイプ・シリーズ3、その隣の黒いMG TC、白いメルセデス190SL、ベージュのルノー・ドーフィン、赤い幌を開けたメルセデス170Sカブリオレと、順番を待つ車が並ぶ。この眺めそのものがマンサールの設計の要で、城の正面軸は並木の先のセーヌを越えて彼方まで抜けていた。目の前の大花壇と水盤は19世紀に土に埋もれ、1955年から67年にかけて15,000立方メートルの土を取り除いて掘り出されたものだ。1651年、13歳のルイ14世が母と共に落成の宴に招かれたとき、少年はきっとこの窓から同じ庭を見下ろしている。
マンサールの正面の前を、古い車が歩くような速度で横切っていく。かつて王の狩りの一行を送り出した庭である。厩舎を失った城に、年に一度だけ町のエキュリーが帰ってくる。そういう日曜だった。
Château de Maisons
2 avenue Carnot, 78600 Maisons-Laffitte
www.chateau-maisons.fr
写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI
