■庶民のアイドル

クリスティアーノ・ルカレッリが庶民のアイドルへと駆け上がっていく物語は、自ら選んだ降格から始まった。

1990年代末から2000年代初頭にかけて、ルカレッリはイタリアの名だたるゴールゲッターたちと並んで語られる存在になるべく奮闘してきた。ロナウド(インテル)、アンドリー・シェフチェンコ(ミラン)、ダヴィド・トレゼゲ(ユヴェントス)、エルナン・クレスポとアドリアーノ(共にパルマ)、ガブリエル・バティストゥータ(フィオレンティーナとローマ)、フィリッポ・インザーギ(ユヴェントスとミラン)、クリスティアン・ヴィエリ(ユーヴェ、ラツィオ、インテル、ミラン)……。

ちなみに、ゴール数が問題になることはない。ルカレッリのキャリアに得点が欠けたことはなく、通算240ゴールという数字は実に立派だ。本当の問題は、当時のセリエAのビッグクラブが彼のような選手を待っていなかったということ。芸術家の要素を持たない“働き者”で、見た目もどこか港の夜勤明けにそのまま試合に来たかのようだったストライカー。ほぼ身長と同じくらい横幅のある上半身に恵まれ、太い腕、さらに太い脚、そして短い首の上には、後ほど触れることになる数々のアイデアと信条で満ちた頭が乗っていた。

それでも、2003年の夏、28歳ですでに7つ目のプロクラブでプレーしていたルカレッリは、セリエAで確立されたストライカーと見なされていた。所属クラブのトリノの降格を防ぐことはできなかったものの、その夏は上位クラブからのオファーに事欠かず、海外からの誘いも同様だった。

AS Livorno Calcio v AS Bari - Serie AGetty Images

■捨てた50万ユーロ

しかし、ルカレッリは自分の心に従った。

その1年前、ASリヴォルノは一時のアマチュア降格などを乗り越え30年の時を経て、再びセリエBの舞台に帰ってきた。そして港町の労働者であった父から労働とASリヴォルノへの愛を叩き込まれたルカレッリは、強豪のオファーを尻目に愛するクラブへの移籍を選んでいる。アルマンド・ピッキ・スタジアムのスタンドで青春時代を過ごし、下部リーグに沈んだ暗黒期にも寄り添い続け、腕にはエンブレムのタトゥーまで入れている男は、父と自分自身、そして街全体の最大の願いを叶えたのだった。

彼が選んだ背番号は99。長男マッティアの生年であり、そして何よりも、当時おそらく最も左派的だったウルトラス集団「Brigate Autonome Livornesi」の結成年でもあった。彼らは人種差別やファシズムと闘い、ミランのオーナーでありイタリアの首相を複数回務めたシルヴィオ・ベルルスコーニへの反逆者集団でもあった。察しがつくとおり、ルカレッリは単なるゴールゲッターではない。彼は共産主義者だった。本人曰く、それは「生まれたときから」である。

もちろん、リヴォルノは彼がトリノで稼いでいた金額は支払えない。そこから50万ユーロ低い提示額だった。だが、以前から給料の一部を慈善団体やソーシャルセンターに寄付していたルカレッリは、喜んでそれを受け入れた。

「フェラーリやヨットを買う選手もいるが、僕はそのお金でただリヴォルノのユニフォームを買っただけ。それだけだ」と、彼はのちに著書『Tenetevi il milliardo(“10億を取っておけ”)』に記している。いささか大げさに聞こえるが、当時はユーロ導入直後の時期で、多くのイタリア人がまだ旧リラで計算しており、50万ユーロはつまり10億リラだったのだ。ちなみにその本は後に、リヴォルノの中等教育機関で必読書になった。若者を消費中毒から引き戻すため、というわけだ。サッカー選手が道徳的権威になる。これだけでもすでにセンセーションだった。

■“ロマン”

そうしてルカレッリを加えたリヴォルノは、彼の加入以上のセンセーショナルを巻き起こす。最前線に彼と最高の相棒であるイゴール・プロッティ、最後方では若きジョルジョ・キエッリーニを擁し、セリエBを席巻。2トップはチームの75得点のうち53得点を二人で叩き出した。ルカレッリは最終的に29ゴールを挙げたが、得点王に届かなかったのはパレルモのルカ・トーニという男が30得点を挙げたからにほかならない。

2003-2004シーズン、リヴォルノは55年ぶりのセリエA昇格を達成。それは夢のようなシーズンだった。当時すでにかなり商業化が進んでいたフットボールの世界において、ルカレッリとリヴォルノの物語は“ロマン”そのものだ。スタンドから現れた赤いゴールゲッターが人々の英雄として立ち、クラブは既成勢力の強烈な矢を突き刺している。

セリエA復帰後最初のシーズン、ルカレッリは24ゴールを奪い得点王を獲得。リヴォルノは初シーズンを9位で終えた。

SV Pasching's defender Michael Baur (R)Getty Images

■反逆者

こうなると、当然イタリア代表指揮官マルチェロ・リッピも無視できない。2005年6月8日、30歳の誕生日を数カ月後に控えたルカレッリはアッズーリデビューを果たす。セルビア戦の終了2分前にピッチに立つと、1-1のドローに持ち込むゴールを奪っている。3日後にはエクアドル戦で45分間プレーした。

しかし、リッピはそれで十分だと思ったのだろう。ルカレッリは2005-06シーズンも19ゴールを奪い、イタリア人選手で上回ったのはトーニだけ。リヴォルノも5位で欧州カップ戦出場権を獲得した。だが、2006年の栄光のワールドカップではメンバーから外れている。

このリッピの判断の要因は、おそらくピッチ外にある。彼はゴールを労働者や庶民に捧げ、自ら金銭を放棄した共産主義者であるだけではない。ルカレッリは以前から、扱いにくい反逆者として知られていた。本人は「反逆者になりたかったことは一度もない」と話しているが、このイメージは20歳の頃からつきまとっている。

誇り高いルカレッリは1997年3月27日、彼のスタジアムであるアルマンド・ピッキで、U-21イタリア代表として初出場。モルドバ戦では北側ゴール裏の友人たちに「もしゴールを決めたらピッチ上から合図を送る」と約束していた。ウルトラスは試合前にTシャツを彼に手渡し、ルカレッリはそれをアッズリーニのユニフォームの下に着込んだ。63分、待望の瞬間が訪れる。フランチェスコ・トッティがボールをペナルティエリアにふわりと入れ、ルカレッリがエリア内で短く加速し、右足で強烈なシュート。ボールがネットを揺らすよりも早く、ルカレッリは向きを変え、北側ゴール裏前の広告板に飛び乗ってユニフォームをまくり上げた。

このゴールは、U-21 EURO予選で6-0と圧勝した試合での5点目に過ぎない。しかしそれでも、その一撃はルカレッリの「リヴォルノ以外」でのキャリアを永遠に複雑なものにしてしまった。ウルトラスから渡されたTシャツには「Il Livorno e una fede. Gli ultras i suoi profeti(リヴォルノは信仰であり、ウルトラスはその預言者だ)」という文言だけでなく、何よりもキューバ系アルゼンチン人の革命指導者チェ・ゲバラの象徴的な肖像が大きくあしらわれていた。

リヴォルノでは1921年にイタリア共産党が結成され、トスカーナの港町の人々は今日に至るまで中道左派に多数が投票している。とはいえ、あの晩のチェ・ゲバラのTシャツは、ルカレッリが政治的意思表示をしたものではないはずだった。彼はただ、自分のゴールを仲間たちに捧げたかっただけだ。だがそれ以降、彼は反逆者となった。プロになったウルトラス、ユニフォームを着た左派活動家。右寄りだった当時の所属クラブ、パドヴァのファンはそれ以来ブーイングを浴びせ、クラブは彼を敬遠し、代表は彼を呼ばなかった。

ルカレッリはその後、『Corriere della Sera』のインタビューで「僕には僕の信条がある。チェ・ゲバラは、平等や連帯という考え、そして正義感の面で僕にとってインスピレーションだった。でも、僕は決して闘争的だったわけじゃない。練習よりデモを優先して行ったことなんて一度もないのに、僕についてはそういう語られ方をしているんだ」と語っている。

■カルチョにはびこる問題

もちろん、彼がこのイメージを持たれたのは不運や意図しないものだけが原因だったわけじゃない。

リヴォルノの左派ウルトラス約150人がラツィオ・ローマの右翼ファンと乱闘して拘束されたとき、彼は自腹で何台かの観光バス代を払い、ウルトラスを家に帰している。それからしばらくの間、ルカレッリはゴールを決める度に拳を高く突き上げ、共産主義のポーズを示している。そのせいでイタリアサッカー連盟から3万ユーロの罰金を科されている――ちなみに、右翼であることを公言していたラツィオのパオロ・ディ・カーニオがいわゆるローマ式敬礼(ドイツではヒトラー式敬礼として知られる)を示して支払わされた額の3倍である。

また、ルカレッリはチェ・ゲバラの娘と会い、夏にはキューバで親善試合を企画した。さらに、十分なパフォーマンスを発揮できていないと感じたときに自ら給与を10万ユーロ減額したこともある彼は、同僚たちの消費中毒を糾弾。本の最後で、まったく謙遜せずこうも言い切っている。「リヴォルノはただのチームではない。カルチョを救う力の一つだ」と。なぜならカルチョは惨憺たる状態で、スタジアムの外に目安箱を置けば溢れかえってしまうだろうと主張している。

彼の主張は決して完全に的外れだったわけではない。セリエAは当時すでに地位の低下と戦っており、まさに銀河系レベルのドリームチームはレアル・マドリーとバルセロナのものであり、プレミアリーグはこれから来るバブルに向けた助走を始めていた。

一方のセリエAでは、フィオレンティーナ、ナポリ、パルマ、トリノといったクラブが次々と破綻し、リーグは荒廃したスタジアムでの暴力や、賭博・八百長スキャンダルに苦しんでいた。さらに1990年代末には、ユヴェントスの元チームドクターたちが選手への組織的ドーピングで有罪判決を受けている。問題は存在し、見過ごせるものではなかった。古参のパトロンたちがリーグやクラブを取り仕切っており、それが深刻な社会問題となっていた。ルカレッリとリヴォルノは、そこで厄介な内部告発者と見なされていたのである。

だが結局、彼とリヴォルノはカルチョを救うわけではなかった。

2007年夏、ルカレッリはリヴォルノの会長と仲たがいし、結局「金を持ってこい」と言い放って、シャフタール・ドネツク(ウクライナ)へと移籍している。そこで彼は初めてチャンピオンズリーグの舞台に立つが、クルヴァ・ノルドの人間は「年俸400万ユーロのために魂を売った」とのメッセージを送りつけている。

それでも、彼のリヴォルノへの愛情が消えたわけではない。移籍の理由が金だと認めたものの、街と人々にもそれを還元したいのだと主張。その一環として新聞を創刊している。2007年9月9日、チャンピオンズリーグでの初戦(そして初ゴール)の9日前、『コッリエーレ・ディ・リヴォルノ』が初めて発行された。ルカレッリは筆頭株主であり発行元で、、200万ユーロをこのプロジェクトに投じた。そこで彼は、普段は声を届けられない人々に発言の場を与え、さらにいくつかの雇用も生み出したいと考えていた。

AS Livorno Calcio v AS Roma - Serie AGetty Images

■現在

その後のルカレッリは、シャフタール・ドネツクを半年で退団し、冬にはパルマに移籍。リヴォルノでのアウェーゲームでは、クルヴァ・ノルドから容赦ないブーイングを浴びた。また、彼の創刊した新聞は3年で終了。広告主が集まらず、発行部数も期待外れだった。リヴォルノは2008年夏に最下位でセリエBに降格。その後は昇降格を繰り返し、売却、破綻、そしてアマチュアへの転落を経て、現在はセリエCで戦っている。

ルカレッリは2012年まで現役を続け、短期間ながら再びリヴォルノでもプレーしたが、28試合で10得点を挙げても最終的な降格を防ぐことはできなかった。引退後は指導者の道へと進み、クラブが一時的にセリエBへ復帰した際には、短期間指揮を執っている。

しかし、もはや以前と同じではなかった。ゴール裏の共産主義者が自分の仲間のためにゴールを決める……そんな物語は語り尽くされていた。中部・南部イタリアのクラブを中心に、3部と2部で数多くのチームを渡り歩いたのち、ルカレッリは2025年12月26日からピストイアを率いている。セリエA在籍は1981年が最後。トスカーナの工業・労働者の街で、4部リーグからの昇格を夢見ているのだ。