島根県立美術館(松江市)で「島根から世界へ― 生誕150年 石橋和訓展」が3月6日(金)から6月8日(月)まで開催されます。
本展は、島根から世界へと大きく羽ばたいた郷土出身の画家・石橋和訓いしばしかずのりを顕彰する、公立美術館では初となる回顧展です。英国の大英博物館をはじめ、国内外にある石橋作品も多数集結します。そこで今回は、画家の生誕150年を飾る本格的な展覧会となった本展の概要や見どころをご紹介します。
石橋和訓《日本の桜花とヤマドリ》1905年 個人蔵(英国)
島根から世界へ― 生誕150年 石橋和訓展
会場:島根県立美術館(島根県松江市袖師町1-5)
会期:2026年3月6日(金)~6月8日(月)
開館時間:10:00~日没後30分
(展示室への入場は日没時刻まで)
休館日:火曜日(ただし5/5は開館)
観覧料:
<一般>
1,300円、大学生1,000円、小中高生500円
<オンラインチケット・ローソンチケット>
一般1,000円、大学生700円、小中高生400円。※未就学児無料
※身体障害者手帳等をお持ちの方と付添人1名は無料
アクセス:
JR松江駅から市営バス(南循環線内回り)で約6分、県立美術館前下車。
山陰自動車道「松江西ランプ」より車で約5分
詳細は、島根県立美術館公式サイトまで。
画家・石橋和訓について
現在の島根県出雲市佐田町出身の画家・石橋和訓いしばしかずのり(1876-1928)は、明治期に英国に渡り、ロイヤル・アカデミーで日本人最初の入学者という大きな足跡を残しました。その代表作《美人読詩》に見られるように、J.S.サージェントらに師事してヨーロッパの洗練された油彩技法を身につけた石橋の肖像画は現地で好評を博します。
他方で、日本で滝和亭らのもとで身に着けた日本画の技術は英国の日本美術愛好家にとても高く評価されました。下村観山や南薫造ら他の渡英日本人画家たちとの交友も知られています。
帰国後は主に肖像画家として活躍し、犬養毅や渋沢栄一など政財界要人の肖像画を多数制作。帝展を中心に発表し審査員も務めるなど画壇での存在感を強めました。1928年に51歳で急逝したことにより、次第に忘れられてしまいましたが、近年日英両国間での調査の進展により、その足跡が明らかになりつつあります。
石橋和訓《美人読詩》1906年 島根県立美術館蔵
展覧会構成
I. 立志 1876-1903 出生から渡英まで
1876(明治9)年6月6日、島根県飯石郡西須佐村(現在の出雲市佐田町反辺たんべ)で農家を営む父熊三郎、母マツの間に生まれた石橋倉三郎(のちの和訓)は、幼い頃から画才に秀でた少年でした。周囲の支えもあってその夢は大きく広がり、地元から松江、東京と出て、やがて英国留学を志します。
松江時代の師・後藤魚洲ぎょしゅうや堀櫟山れきざん、東京時代の師・本多錦吉郎や滝和亭かていらの作品とともに、青年時代の石橋作品が紹介されます。
石橋和訓《肖像》1892年 島根県立美術館蔵
II. 飛躍 1903-1917 第1次滞英期
石橋はロンドンに到着するや否や努力を重ね、様々な人々からの紹介や薦めを受けて、ロイヤル・アカデミー・スクール初の日本人入学者となりました。ロイヤル・アカデミー(RA)ではサージェントやソロモン・J・ソロモンらのもとで西洋伝統の油彩技法を習得。とりわけ師サージェントも得意とした肖像画の分野で力を発揮することになります。
また、今回初来日する、日本美術愛好家アーサー・モリソンの石橋作品(大英博物館所蔵)など日本画も多く残しました。当時英国に留学した他の日本人画家たち――日本画家の下村観山や洋画家の南薫造、白瀧幾之助、建築家の大沢三之助らとの交友についても紹介されます。
石橋和訓《彫刻家》1911年 東京国立近代美術館蔵
南薫造《坐せる女》1908年 広島県立美術館蔵
下村観山《ナイト・エラント》(J.E.ミレイ)の模写 1904年 横浜美術館蔵(原範行氏、原會津子氏寄贈)※5月11日まで展示
石橋和訓《松方正義肖像》1918年 鹿児島市立美術館蔵
III. 凱旋 1918-1919 渡英~第1次帰朝
渡英後初めて帰国した石橋は、英国からの新帰朝者として『中央美術』や『みづゑ』といった雑誌へ寄稿する傍ら、英国人画家フランク・ブラングィンの版画104点を中心とする『欧州大家絵画展覧会』を開催。これには第一次世界大戦下の亡命ベルギー人作家のためのチャリティー展としての側面もあり、石橋の人道的な性格や社会活動家としての側面が発揮される機会ともなりました。
同時に、中條精一郎ら友人たちが発起人となり「石橋和訓氏肖像画会」も結成。犬養毅いぬかいつよしや渋沢栄一など政財界の重要人物が賛助会員として名を連ね、石橋のネットワークが広がりを見せます。
「松方コレクション」で知られる松方幸次郎とブラングィンによる「共楽美術館構想」の話し合いの場に黒田清輝やバーナード・リーチらとともに参加していたことも知られており、当時様々な美術家や上流階級とも交流のある英国通として期待されていた石橋の存在感の大きさが窺えます。
IV. 頂点~ 1920-1923 再渡英~第2次滞英期
再び渡英した石橋は、英国内の展覧会に加え、日本の帝国美術院展覧会(帝展)でも発表するなど引き続き精力的に活動を行いました。くわえてこの2回目の滞英期は、パリのソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(国民美術協会)のサロンへ亀井茲常これつね伯爵一家の肖像画を出品するなど、国際的な活躍を見せます。
同時に、ロンドンにおける重要な美術団体であるチェルシー・アーツ・クラブの会員となり、英画壇での存在感を示しました。この芸術家たちによる紳士クラブへの入会に当たっては、第一次帰朝時に行ったベルギー難民を救済するチャリティー展『欧州大家絵画展覧会』の企画・開催という社会的貢献が寄与したのではないかとされており、画業以外の業績も含めて英国における石橋評価はここにおいてピークに達したと言えます。
リバプールの実業家ボールト家(高名な指揮者であるエイドリアン・ボールトを輩出)との関係も紹介されます。
石橋和訓《渋沢栄一肖像》1925年 学校法人日本女子大学蔵 撮影:廣瀬久哉
V. 栄光 1923-1928 第2次帰朝~急逝
1923(大正12)年9月2日、石橋は友人の水彩画家ハーバート・ヒューズ=スタントンを伴い日本に帰国。折しも前日に起きた関東大震災のため東京に入れなかった二人は石橋の故郷・島根に向かいます。こうして彼らの手になる島根の風景画やゆかりの品々が残されることになりました。
やがて東京に戻った石橋は、渋谷の常盤松にアトリエを構え制作に勤しみます。このアトリエには、渋沢栄一、徳川家達いえさと、若槻礼次郎ら政財界の重鎮たちがモデルとして訪れたことが知られています。この時期、帝展審査員を務めるなど画壇での存在感を強めました。
その頃、渋沢が献納する明治神宮外苑聖徳記念絵画館の壁画「グラント将軍と御対話」の揮毫を命じられるという栄誉にも浴しています。制作の準備を進めていた石橋でしたが、1928(昭和3)年5月3日に51歳で急逝。未完に終わりました。
晩年、故郷の出雲市佐田町反辺に建立した「昭和記念塔」についても紹介されます。
石橋和訓(滞英時代)個人蔵(島根県立美術館寄託)
画家生誕150年を記念して開催される本展は、これまで語られることの少なかった石橋和訓の全貌に迫るまたとない機会です。大英博物館が所蔵する貴重な日本画作品の里帰りや、日本近代史を彩った政財界の重鎮たちの肖像画が一堂に会する光景は、まさに圧巻の一言に尽きるでしょう。英国の伝統に根ざした洗練された油彩技法と、日本画の繊細さが融合した石橋独自の芸術世界を、ぜひその目で確かめてみてはいかがでしょうか。(美術展ナビ)
