(CNN) オーストラリア南西部の都市パースの海岸から見渡せば、水平線から青い丘がそびえているのが見える。丘は日によって手が届きそうなほど近くに見えたり、霧や通り過ぎる船の陰に隠れて見えなかったりする。

「人目につきたがっている時もあれば、影に隠れたがっている時もある」と語るのは、豪マードック大学の講師、グレン・スタシウク氏だ。同氏はこの島を扱った2014年のドキュメンタリー「Wadjemup: Black Prison — White Playground」のディレクターを務めた。Wadjemup(ワジャマップ)は島の呼び名で、「黒人(先住民)の牢獄、白人の遊び場」という意味のタイトルだ。「島は独立した存在。鼓動を刻んでいる」と、スタシウク氏は言う。

現地の先住民ヌーンガー族の間で「ワジャマップ」と呼ばれるロットネスト島は、パース近郊の港町、フリーマントルから19キロ沖合に浮かぶ島だ。白砂のビーチと透明な海、笑ったような顔の有袋類「クオッカ」とのふれあいを求めて、年間80万人以上の観光客が訪れる。自撮り写真に笑顔で収まるクオッカは、インスタグラムの人気者だ。

西オーストラリア大学の名誉教授でヌーンガー族長老のレン・コラード氏によれば、ワジャマップの伝統的な保護管理者たちにとって、島は聖地だ。「ヌーンガー族の言い伝えでは、人が死ぬと魂は体を離れて西方の島々へ、霊のありかへと渡る」

「ワジャマップはずっと魂の宿る場所だった」と、コラード氏は説明する。「だが植民地時代を経て、さらに神聖な場所となった。ここでは多くの先住民が収監中に亡くなり、その人数はオーストラリア国内で最大に達した」

先住民の牢獄にされたワジャマップ

この島は93年にわたり、先住民の少年や男性のための刑務所として機能していた。写真は島に収監された身元不明のアボリジニの囚人たち=1920年ごろ/State Library of Western Australia
この島は93年にわたり、先住民の少年や男性のための刑務所として機能していた。写真は島に収監された身元不明のアボリジニの囚人たち=1920年ごろ/State Library of Western Australia

オーストラリアの先住民は少なくとも6万5000年にわたり、「カントリー」と呼ぶ大地や海、空を保護管理してきた。地球上で最も古くから続く文明のひとつだ。英国は1770年にオーストラリア東部を支配下に置き、1788年には有罪判決を受けた囚人らを中心とする入植者の「第1船団」が到着した。その後に続く植民地時代には、地元の先住民と英国人の間で激しい紛争が起きた。

ワジャマップは1838年、先住民の少年と成人男性を収容する流刑地となった。最初の囚人たちは船で送り込まれ、海岸の洞窟に寝泊まりしながら石灰石を掘り出して、自分たちの牢獄を建設した。

スタシウク氏によると、囚人の多くは家畜や配給の小麦を盗んだ罪に問われた。本人たちにとって「まったくなじみのない」制度によって起訴され、逮捕され、知らない言語で刑を言い渡された。家族と再び会えるのか、会えるとしてもいつになるのか分からないまま、突然島から追放された。

2000キロ以上離れた内陸部のキンバリーなどから、長く悲惨な移動を強いられるケースもあった。スタシウク氏によると、砂漠の出身者は海を見たことさえなかった。コラード氏は、当時の慣習としてよくみられたように首や腕、脚をくさりでつながれたケースも多かったと話す。

囚人たちはワジャマップに到着すると、鉱物の採掘やインフラ建設の過酷な労働を強制された。スタシウク氏は「桟橋も小屋も牢獄も総督の邸宅も、すべて先住民の囚人たちが建てた」と話す。コラード氏によると、この工事を経験した先住民は島から戻った後も、安い労働力として使えると考えられた。植民地当局はこれを理由に、牢獄設置にコストをかけるのは妥当だと説明していた。

独房での生活も同様に厳しかった。牢獄内は囚人であふれ返り、病気が蔓延(まんえん)していた。こうした劣悪な状況はヘンリー・ビンセントという特に残忍な刑務所長の下でさらに悪化したと、スタシウク氏は指摘する。「ビンセントは片目しかなく、ナポレオン戦争を経験していた」「囚人たちをくさりで独房に縛りつけ、殴りつけ、銃で撃った」

スタシウク氏によれば、ビンセントがこれらの罪で裁かれることはなく、島にはその名にちなんだ道路が2022年まで存在した。

19世紀末までには本土に刑務所が増設され、ワジャマップをレジャーに活用したいという要望が強まるのと同時に、牢獄の閉鎖を求める声が上がり始めた。牢獄は開所から93年経った1902年になって、正式に閉鎖された。

ワジャマップでは計4000人近い先住民男性や少年らが収監された。ここで亡くなった373人は、ほとんどが墓標のないまま埋葬された。

観光名所となったワジャマップ

島の主要なフェリー桟橋の端にある彫刻。ヌーンガー族の戦士と水面から身を躍らせるクジラを描いている/Tim Campbell/Rottnest Island Authority via CNN Newsource
島の主要なフェリー桟橋の端にある彫刻。ヌーンガー族の戦士と水面から身を躍らせるクジラを描いている/Tim Campbell/Rottnest Island Authority via CNN Newsource

現在ワジャマップを訪れる観光客の多くは、その悲惨な歴史を知らない。太陽が照りつける広い道路を自転車で走り抜け、サンゴ礁でシュノーケリングを楽しみ、アイスクリームを片手に旧植民地の街を散策する。こののどかな観光地と、地下に埋もれた恐ろしい過去は対照的だ。

牢獄が閉鎖された直後から、島は観光地化に向けた再開発を始めた。1911年に、本館の独房棟が宿泊施設に改築された。壁が取り壊されて水道と電気の設備がつくられ、建物の歴史は消え失せた。コラード氏はそう語り、観光客は「男たちが死んだ場所で部屋に金を払い、ベッドに入り、愛を交わすようになった」と説明した。

さらにひどいことに、亡くなった囚人たちが眠る墓標のない埋葬地は、「テントランド」と呼ばれるキャンプ場となった。それから90年の間、オーストラリア最大級の先住民の埋葬地のわずか60センチ上に、観光客たちが眠っていた。