
FC岐阜のスタッフと
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サンフレッチェ広島を辞めた後は、日本サッカー協会の仕事や大分トリニータ、愛媛FCの設立を手伝った。また、広島在職中から岡山の吉備国際大学でスポーツ社会学科教授として教壇に立っていた。私は東京教育大学の出身で中学校と高校の体育の教員免許は持っているが、大学で教えたことはない。それでも、「サッカーを通じたスポーツ人生について教えてほしい」ということだったので、サッカーがプロ化された時のことなどを話した。みんな目を輝かせて聞いてくれて、学生が真剣に取り組む姿に私も感銘を受けた。
広島を辞める少し前に、広島に選手として在籍したことがあったFW森山泰行から「故郷の岐阜にチームをつくりたいので、力を貸していただけないでしょうか」と相談され、FC岐阜の顧問に就任。07年1月に広島の取締役を退任したタイミングでGMに就任した。
岐阜県は明治、大正時代から繊維の町として発展していたが、ひとつ難しいところがあった。県内には岐阜市がある濃尾地域と大垣市がある西濃地域が県を二分していた。サッカーは元々大垣市に本社があった西濃運輸サッカー部がジャパンフットボールリーグ(JFL)に所属していたが、97年に廃部。その後12年の岐阜国体へ向けて、東京教育大学のOBで教員になっていた数人が中心になって、岐阜市でFC岐阜を設立した。だが、地域性の問題もあって資金集めに苦戦し、クラブは債務超過に陥っていた。常勤役員や常勤スタッフも規定の人数を満たせず、Jリーグに準会員としての入会を申請したが、継続審議となっていた。資金不足に加えて、県などの行政の協力もなく、想像以上に厳しい状況だった。
私はサンフレッチェ広島などでGMを務めたので、周囲の人は「今西なら簡単に解決できる」と思っていたが、それまで縁もなかった岐阜で地域を動かすことは難しかった。それでも、私は「チーム強化も大事だが、それ以上に、チームの存在意義を示すことが大事だ」と言い続けた。地域貢献活動を通じて地域に根ざし、地域に溶け込んでチームを認知してもらわないと地方都市でJクラブがやっていくのは難しい。マツダやサンフレッチェ広島でやったように、小、中学生を対象にサッカーの巡回指導をやるべきだと考え、実行した。
ようやくうまくいき始め、10年には県から「社長をやってほしい」と頼まれた。ここは腹をくくってやるしかなかった。12年5月に西濃運輸に出向いて、改めて協力をお願いし、何とか理解してもらうことができた。地域と行政、財界、クラブの一体感が出てきて軌道に乗ったが、私は腰痛が悪化してきたことと、「社長は岐阜出身の人がやるべき」と考えて8月に辞任した。改めて地方でクラブを立ち上げる難しさを実感した。
◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。
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