
黒岩彰さん(C)日刊ゲンダイ
【あの人は今こうしている】
黒岩彰さん(カルガリー五輪銅メダリスト/64歳)
冬季オリンピックといえば、懐かしいのがこの人。花形種目のスピードスケート500メートルのスターだった黒岩彰さんだ。88年のカルガリー五輪で銅メダルを獲得したあともスポーツ界で長いこと指導にあたっていたはずだが、意外な“転身”をしていた。
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黒岩さんに会ったのは、群馬県嬬恋村の役場。24年4月に副村長に就任したという。
「副村長になる前は、JOCで10年間コーチをしていました。でも、還暦を過ぎて62歳にもなったことだし、少しノンビリしようと思い、24年2月にスケート界から離れたんです。そこへ、生まれ故郷の嬬恋村の村長の熊川栄さんから声をかけていただきました」
2階の会議室へ記者を導きながら、黒岩さん、まずはこう言った。
「最初は迷いました。東京の家を新築したところでもあったので。そんなとき、外務省からサラエボ五輪40周年記念式典への出席の話をいただき出向いたところ、サラエボの旧市街は、私が五輪に出場した後のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の爪痕がそのまま残っていました。サラエボ市長は私との会談で、『市民は過去に縛られていて成長できない。今を明るく楽しく健康的に生きられるようにと望んで市長になった』と。それを聞いたとき、人生観が変わりました。私も嬬恋を明るく楽しい村にするお手伝いができるんじゃないかと」
■再び実家生活。妻子がいる東京の新居に帰るのは正月くらい
副村長の仕事は、村長のサポート。村長が行けないイベントに代理出席したり、土日も出かけることが多く、休みはほとんどないという。
「専修大学進学のために離れて以来ですから、嬬恋で暮らすのは44年ぶり。家族は東京・町田の新しい家に暮らし、私は単身赴任。といっても、実家の2階建ての離れで暮らし、食事は実家で世話になったりして、不便さはありません。両親は今も元気なんですよ。父親は94歳、母親は91歳。父親は今も朝2時半から畑に出て、キャベツの出荷作業を手伝っています」
町田の自宅には、29歳のときに結婚した大塚製薬勤務の薬剤師だった夫人と、31歳のスポーツトレーナーの長男が暮らす。大学病院の小児科医である35歳の長女は結婚し、現在は休職して1歳の男児の子育て中だ。
「私は年1回、正月くらいしか町田の自宅に戻れず、新しい家で過ごしたのは、まだトータルで2週間ぐらい(笑)。でも、私は26歳のときにカルガリー五輪で銅メダルを獲得し引退した後、所属していた国土計画(コクド)スケート部の監督や西武ライオンズ球団の代表になったりして、いつも海外や、国内でも北海道や長野を飛び回っていたので、家にはあまりいられなかった。家族は私の不在に慣れているでしょう」
2年前にスケート界から離れた今も、海外の大会などの際は一時的に副村長の仕事を離れ、選手に同行しコーディネートを続けているそうで、多忙な日々だ。
さて、黒岩さんといえば、大学4年生のときの84年サラエボ五輪。世界スプリント選手権での活躍から“金メダル候補”に祭りあげられ大騒ぎされたものの、期待に応えられず500メートルは10位。4年後のカルガリー五輪、自己最速タイムで雪辱を果たしたとはいえ、五輪のプレッシャーに苦しんだ一人である。
「サラエボで10位に終わったとき、マスコミには手のひらを返され、『オレたちはなんのためにサラエボまで来たんだよ』と言われました。でも、私のために涙を流してくれた記者もいた。おかげで、なんとかマスコミ嫌いにはなりませんでした」
黒岩さん、こう言って笑顔を見せてくれた。
(取材・文=中野裕子)
▽黒岩彰(くろいわ・あきら) 1961年9月6日群馬県・嬬恋村生まれ。中学からスケート部。専修大に進み、84年サラエボ五輪出場。88年カルガリー五輪スピードスケート500㍍で銅メダル獲得。現役引退後は専修大学やコクドの監督などを経てNPBの西武ライオンズに出向し、松坂大輔投手のサポートに尽力。2004年球団代表。08年、スケート界に戻り、富士急行監督。14年からJOCコーチ。24年、嬬恋村副村長就任。
