卒後3年目、月10日は当直の日々

1998年3月に三重大学を卒業。父が経営する富田浜病院があるのは三重県四日市市。臨床研修必修化前の当時、稔文氏が整形外科入局先として選んだのは、東京女子医科大学だった。

 祖父(2007年に90歳で逝去)は当時まだ健在で、河野臨床医学研究所(東京都品川区)の仕事を続けていました。父も「いずれは東京・北品川に戻る」と話しており、私自身も「本拠地は東京」という意識がありました。

 東京女子医科大学を選んだのは、出身大学でなくても「外様」でも、肩身の狭い思いや学閥の煩わしさを避けられると思ったからです。臨床研修が必修化される前の当時は、やはり自大学出身者が優遇されやすい傾向がありました。女子医大の当時の教授と助教授は男性で、1学年上の2人も男性、私の代も9人いずれも男性でした。当然ながら、女子医大卒ではありません。

 研修の1年目は大学本院、2年目は柏厚生総合病院、3年目は附属第二病院(現・足立医療センター、東京都荒川区)、4年目は大学本院で麻酔と救急も回り、5、6年目は山梨県都留市の病院、7年目は埼玉県所沢市の病院をローテーションしました。そして8、9年目は祖父の北品川第三病院に勤務しました。

 卒後2年目からは指導医のもと、骨折などの簡単な手術を担当するようになりました。3年目の第二病院は救急に力を入れており、外傷患者が来れば整形外科医が呼ばれました。運が悪ければ3日3晩ほとんど眠れないのが当たり前。この1年間は、月に10日は当直をこなし、病院にほぼ泊まり込んでいたと言っても過言ではありません。

研修医時代。右から2番目が稔文氏(提供:河野氏)

自信をもって「分かりません」と言えるように

外来、手術、病棟管理、救急……と多忙な日々を送りつつ、整形外科の研さんを積んだ稔文氏。印象的なエピソードなどを語ってもらった。

 印象に残っているのは、当直で救急搬送された足の開放骨折の患者さんです。当直には救急医など他科の医師もいましたが、整形外科は私一人。迅速に対応しなければ出血で血圧が下がり、足の壊死や感染症、生命のリスクも高まります。一方で骨接合しても、100%再建できるわけではありません。切断するかどうか判断を迫られる場面でした。結果的に切断に至り、後のカンファレンスでも適切な判断だったと評価されました。

 そんな厳しい当直もこなしながら、当時は「医師の働き方改革」という言葉すらなく、本当に多忙な日々でした。しかし父が夜中に病院へ駆けつける姿を見て育ち、手術も好きだったので「辛い」と思ったことはありません。

 卒後5年目くらいの時に気付いたことがあります。それは、「様子を見ていても大丈夫」と言ってよい場合があるということ。たまたま外来で先輩が「これは分からないですね」と説明しているのを聞いたのがきっかけです。それまでは、「これは○○病」などとすぐに確定診断を言わなければならないと思っていました。誰が見ても「分からない」のか、あるいは自分に知識がないから「分からない」のかは大きな違いがあります。自分が知識を持ち、経験を積んでいるという前提で、重大な問題が隠れていないと推測できる場合には、「分からない」と言ってよいと悟ったのです。

 7年目に勤務した病院では、整形外科医は私一人。そこからが本当の一人立ちでした。それまでは上級医と一緒で、困れば助けてもらえましたが、所沢では救急患者にも自分で対応せねばなりません。責任の重さは一変しました。難しい予定手術は週1、2回来る上級医と共に行い、自分で学びながら実施していました。

「祖父の病院に、自分が医師として貢献できる」

卒後8年目の2005年から2年間は、祖父が創設者である財団法人河野臨床医学研究所付属の第三北品川病院に勤務する。それはどんな経緯だったのだろうか。

 第三北品川病院の整形外科が不足していたため、病院から女子医大に派遣依頼があり、上司と私の2人が赴きました。ここには以前産婦人科があり、私はそこで生まれた経緯もあったので愛着を感じていました。当直のバイトもしており、「祖父の病院が困っているとき、自分が医師として貢献できる」と肯定的に受け止めていました。ただし当時は女子医大の人事ローテーションの一環であり、いずれ戻るつもりでいました。

 整形外科の手術は多岐にわたり、難易度も様々です。当時の女子医大の教授と助教授の専門は脊椎で、自然と私も脊椎を専門とするようになりました。第三北品川病院での2年間は、先輩に指導を受けながら脊椎手術を学び、研さんを積む貴重な時期となりました。