公開日時 2025年12月31日 00:15更新日時 2025年12月31日 00:15
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自身の戦争体験について語る神谷幸清さん=11月11日、うるま市の津堅いこいの家
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福田 修平
勝連村(現うるま市)津堅島 9歳
うるま市の神谷幸清さん(89)は、生まれ育った津堅島で沖縄戦を経験しました。住民を動員した陣地構築が行われていた津堅島は、米軍の上陸もあり激しい戦火にさらされました。神谷さん一家はサバニで本島に逃れ、辺野古で米軍に捕まりました。神谷さんの話を津堅中学校1、2年生の2人が聞きました。(2025年12月17日掲載)
《神谷さんは1936年12月16日、勝連村津堅(現うるま市勝連津堅)で父・幸一さんと母・トシさんの間に生まれました。兄弟はいませんでした。津堅島では日本軍が陣地構築を行っており、神谷さんも広場で日本軍の大砲を見ました》
戦前は津堅の母の実家で過ごしていました。父は私が物心つく前に日本兵としてフィリピンに出兵しました。それ以降どうなったのかは分かりませんが、おそらく戦死したのだろうと思います。
島の中には日本兵が大勢いました。日本軍は陣地構築を行っており、島の住民も動員されていました。私は子どもだったので、軍に協力したり日本兵と関わったりした記憶はありません。津堅の住民の中には、日本兵と友人関係になっている人もいました。
普段は同年代の友人と手まりなどで遊んで過ごしていました。津堅は大根やアワ、麦などが取れたのでそれを食べていました。
津堅島は多くの場所が軍に接収されており、島南部の高台にある広場は軍のものになっていました。そこには軍の大砲なども構えてあり、触ったこともありました。
勝連村の守備陣地から海を望む。アギナミ岩と津堅島が見える=1945年、勝連村(県公文書館所蔵)
《1944年の10・10空襲は津堅島で経験しました。隠れていたガマ(壕)の中にも激しい空襲の音が響いてきました》
1943年ごろから、敵の攻撃を知らせるサイレンがよく響いていました。10・10空襲以前は米軍の攻撃はそこまで激しくなかったですが、日中はサイレンが鳴っているので主に夜間に活動していました。10・10空襲当日は壕の中に隠れきりだったので周囲で何が起きているのかは分かりませんでしたが、激しい空襲の音がガマの中にも響き、怖かったことを覚えています。
10・10空襲の前は母の実家に隠れていましたが、空襲以降は母と祖父、祖母や他の親族と島内のガマに隠れていました。
浜比嘉島から見る津堅島。上陸した米軍と日本軍が激戦となった=2020年
《10・10空襲の後は攻撃も激しくなり、津堅の住民が防衛隊に参加するようになりました。神谷さんは母と祖父母と共に勝連村平敷屋(現うるま市勝連平敷屋)に移動しました》
米軍の攻撃が激しくなったことから、久志村辺野古(現名護市辺野古)出身の祖母が「ふるさとに戻りたい」と言いました。私は幼かったので周囲の状況が分かっていませんでしたが、家族に促されるまま、家族で津堅島を離れることにしました。祖母がふるさとに戻りたいと言わなければそのまま家族で津堅に残っていたと思います。
戦争が激しくなってからは、地域の青年部を中心に津堅の住民も防衛隊に参加するようになりました。島を離れるため祖父母が防衛隊に依頼し、漁などに使用していた小型船のサバニで平敷屋に連れて行ってもらいました。
夕方に津堅を出発し、平敷屋に到着したのは夜です。同じ船には私の家族以外は誰も乗っていませんでしたが、私たち以外にも多くの津堅住民が本島に移っていました。平敷屋に到着した後、防衛隊の人たちは津堅に戻っていきました。
