ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2025.12.08 14:46
どれほどの人が覚えているだろうか。現在59カ国と自由貿易協定(FTA)を結んでいる韓国が、かつてはFTAの“落第生”だったという事実を。
2003年春、世界貿易機関(WTO)146加盟国のうち、FTAを一つも結んでいない国は韓国とモンゴルだけだった。韓国は2000年代初めまで“多者貿易体制絶対主義”にとどまっていた。WTOのような多者体制は、全世界が同じ規範を作って順守するという理想的な構造だが、加盟国間の利害関係が複雑で合意が遅れ、規則を作れないまま無為に時間を過ごしていた。
その間、世界はすでに別の道を進んでいた。1994年、米国・カナダ・メキシコの北米自由貿易協定(NAFTA)がスタートすると、主要国は競うようにしてFTAネットワークを築き始めた。韓国は危機感を覚えた。WTO中心の戦略だけではもはや未来を保証することはできないという問題意識だった。FTAを結び無関税で貿易する国々に輸出市場を奪われる恐れがあったからだ。この危機感こそが、韓国通商が多者主義からFTA中心へ方向を転じる決定的な契機(トリガー)となった。その戦略転換の頂点にあったのが韓米FTAだった。
◇チリとの交渉で自信を得て、米国へ
2003年8月、韓国政府は「同時多発的FTAロードマップ」を発表した。初期にはできるだけリスクの少ない国と交渉して経験を積み、最終的には米国・欧州連合(EU)・中国のような巨大経済圏との交渉に挑むという構想だった。
最初のパートナーはチリだった。距離が遠く影響が限定的であること、南半球の国で季節が逆なため農業被害を最小化できるなどの実用的理由もあったが、FTA経験の多いチリから学ぶ点が多いという判断もあった。2004年に発効した韓チリFTAは、「我々もFTA交渉をうまくやれる」という自信を持たせてくれた。
その勢いで大型交渉に動いた。2006年2月、世界最大の先進経済圏である米国とのFTA交渉を宣言した。当時、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は「先進国に飛躍するにはより大きな市場に入っていかなくてはならない」とし、FTAを「危険だが必ず越えなければならないハードル」と位置付けた。青瓦台(チョンワデ、大統領府)内部の報告でも懸念と反対が続いたが、盧大統領は「この道を開かなければ次の世代が進めない。今やらなければタイミングを逃す」と言って押し切った。
韓米FTAは単なる通商交渉ではなく、大転換の出発点だった。韓国の経済政策、産業構造や制度を先進国型へと変える契機でもあった。
交渉は初めから難度が高かった。サービス・投資・知的財産権・政府調達・競争政策・非関税障壁など、韓国の経済システム全体を扱う「超広範・超高難度」交渉だったからだ。
韓米FTAは国内の政治・社会・経済の全領域を揺さぶった。14カ月間に8回の公式交渉を行ったが、実際の“より大きな戦争”は交渉場の外で繰り広げられた。牛肉・自動車・医薬品・スクリーンクォーターなど、ほぼすべての分野が国民的論争の対象になった。全国で数十回の公聴会が開かれ、賛否の集会が続いた。大韓民国の歴史上、通商政策がこれほど政治の中心に立ったのはほぼ初めてといってよかった。
公式会議室での交渉もかつてないほど熾烈を極めた。韓国の金鍾勲(キム・ジョンフン)、米国通商代表部(USTR)のウェンディ・カトラーという双方の首席代表は“剣闘士”と呼ばれるほど張りつめた神経戦を繰り広げた。文言ひとつ、数字ひとつをめぐって徹夜の議論を繰り返した。
2007年4月2日、韓米FTAは妥結した。しかし、それは終わりではなく始まりだった。批准という別の山が残っていた。韓国国内では政治・社会的葛藤がさらに激化した。盧大統領は国民向け談話で「FTAは政治の問題でもイデオロギーの問題でもなく、生活にまつわる問題だ」と述べ、国家競争力の観点からの決断であることを強調した。それでも2008年のBSE(牛海綿状脳症)論争と米国産牛肉輸入をめぐる大規模なろうそくデモが韓米FTA賛否と結びつき、韓国社会全体を揺さぶった。米国でも自動車・牛肉・繊維業界を中心に反対が強く、「雇用が減る」という理由で議会内の反発も激しかった。
しかし、米国現地で展開した前例のない規模の「歩み寄り説明会(アウトリーチ)」活動が状況を変えた。ワシントンD.C.で議員や補佐官を説得するだけでは足りなかった。米国は政党公認ではなく予備選挙で議員候補が選ばれる。その分、地元住民の力が強い。韓米FTA批准に賛成する議員を十分に確保するには、選挙区の有権者を説得しなければならなかった。
当時米国には米国商工会議所を中心に、さまざまな業種団体や企業が参加する「韓米FTA支持連合体」が組織されていた。在米韓国大使館は彼らとチームを組み、主要議員の選挙区数百カ所を足で回った。小規模事業者や有権者に対し、FTAが米国にもなぜ必要なのか、韓国との経済同盟が戦略的にどのような意味を持つのかを説明した。地域別に、韓国企業の投資や雇用効果を示す統計を盛り込んだ小冊子もオーダーメイドで作成し配布した。選挙運動に近い外交戦だった。このため「韓米FTAは米国国民を説得して通過させた、ほぼ唯一のFTAだった。これが韓米FTAの独特な歴史」とも評価されている。
<創刊企画「大韓民国トリガー60」(59)>「危険でも必ず越えなければならないハードル」盧武鉉のFTA決断」(2)
