オランダの半導体大手Nexperiaを巡る混乱が、単なる企業統治(ガバナンス)の問題を超え、中国と欧州連合(EU)を巻き込んだ深刻な地政学的対立へと発展している。

2025年11月28日、Nexperiaのオランダ本社経営陣は、中国の親会社であるWingtech Technology(聞泰科技)に対し、サプライチェーンの回復を求める「公開書簡」を発表するという異例の手段に出た。これに対しWingtech側は激しく反発し、事態は泥沼の様相を呈している。

さらに、中国政府がこの問題でEUに直接介入を要請したことが明らかになり、事態は新たな局面を迎えた。本稿では、自動車産業を人質に取ったかのようなこの「企業内戦」の全貌と、その背後にある複雑な政治・法的な力学、そしてグローバルサプライチェーンへの深刻な影響を見ていきたい。

異常事態:公開書簡による「宣戦布告」

半導体業界において、本社が自社の特定地域の事業体に対して、プレスリリースを通じて業務連絡を行うなどということは前代未聞である。しかし、Nexperiaのオランダ本社(Nexperia B.V.)はまさにその手段を選択した。

オランダ本社の主張:「対話の拒絶」と「生産停止の危機」

Nexperia B.V.が公開した書簡および声明によれば、彼らは中国の事業体(Wingtechの支配下にある工場や物流拠点)に対し、従来のチャネルを通じて「度重なる直接的な対話の試み」を行ってきたという。しかし、これに対する「意味のある応答」は一切なく、完全な無視を決め込まれている状態だと主張している。

オランダ側が最も危惧しているのは、顧客への影響だ。書簡には「様々な業界の顧客が、差し迫った生産停止(imminent production outages)を報告している」と記されており、事態の緊急性が強調されている。彼らは中国側に対し、即時の対話再開と、確立されたガバナンスへの復帰を求めている。

Wingtech(中国親会社)の反論:「盗っ人猛々しい」

一方、上海証券取引所に上場する親会社Wingtech Technologyの反応は冷ややかかつ攻撃的だ。彼らはオランダ側の公開書簡を「誤解を招く虚偽の申し立て」と一蹴した。

Wingtechの主張の核心は、「サプライチェーンの混乱の根本原因は、WingtechからNexperiaに対する株主としての権利と支配権を不法に剥奪したことにある」という点だ。さらにWingtechは、オランダ本社が中国の従業員を社内ITシステムから遮断し、中国工場へのウェハー出荷を停止したことこそが問題であると非難している。つまり、対話を拒否しているのではなく、オランダ側が実力行使によって中国側を「兵糧攻め」にしているという構図を提示しているのだ。

また、Wingtechは10月以降、混乱の中にありながらも74億個の部品を出荷したと主張しており、供給責任を果たしていないのはオランダ側であると強調している。

背景にある構造:冷戦時代の法律と「乗っ取り」騒動

この対立を理解するには、時計の針を2025年9月に戻す必要がある。

オランダ政府の強権発動

事の発端は、オランダ政府が安全保障上の懸念(背後には米国の圧力があったとされる)を理由に、冷戦時代に制定された「物資供給法(Goods Availability Act)」を発動したことにある。これにより、オランダ政府は事実上Nexperiaの経営権を一時的に掌握し、Wingtechが送り込んでいたCEOのZhang Xuezheng(張学政)氏を排除、ドイツ人のStefan Tilger氏を暫定CEOに据えた。

この措置は、中国側から見れば「国家による民間企業の資産強奪」に他ならない。Wingtechが2019年に巨額を投じて買収した企業のコントロール権を、政治的な理由で剥奪されたのだから、その怒りは想像に難くない。

「偽りの休戦」と中国の不信感

11月中旬、事態打開に向けた動きがあった。オランダ政府は中国当局との協議の後、国家介入の「一時停止」を発表したのだ。市場関係者はこれを解決の糸口と見たが、中国側の怒りは収まらなかった。

ここに、本件の最も複雑かつ重要な法的論点がある。

行政命令の停止: オランダ経済省は介入を「停止」したが「撤回」はしていない。

司法判断の継続: オランダ企業裁判所(Enterprise Chamber)による「Wingtechの議決権停止」と「Zhang CEOの解任」という決定は、行政命令とは独立して生き続けている。

つまり、オランダ政府が「手を引く」ポーズを見せても、法的にはWingtechは株主としての権利を行使できず、自らが選んだCEOを復帰させることもできないままである。中国のコラムニストが「オランダは大きな地雷を埋めたままにした」と評したように、中国側にとってこれは完全な欺瞞であり、時間稼ぎに過ぎないと映っている。

政治闘争の激化:中国がEUへ「直訴」

この膠着状態を打破するため、中国政府は異例の外交カードを切った。

王文濤商務相の介入

中国商務省は11月26日、王文濤(ワン・ウェンタオ)商務相がEUのマロシュ・シェフチョヴィチ貿易担当欧州委員(上級副委員長)とビデオ会談を行ったと発表した。ここで中国側は、「Nexperia問題の解決には、オランダと中国の現地法人が直接交渉を行うべきだ」という点でEU側と合意したとしている。

しかし、この発表の裏にある政治的メッセージは強烈だ。

オランダ政府への不信任: 中国はもはやオランダ政府単独での解決能力(あるいは意思)を信用しておらず、その上位機関であるEUを通じて圧力をかけようとしている。

司法への不満表明: 通常、外国政府が他国の司法判断(裁判所によるCEO解任や議決権停止)に口を出すことは内政干渉と取られかねない。しかし中国は、この司法プロセス自体が政治的な「デカップリング(切り離し)」の一環であると断じ、公然と不満を表明している。

「脱中国化」への懸念

Wingtechが特に神経を尖らせているのが、Nexperiaオランダ本社が進めるマレーシアへの3億ドルの投資計画だ。オランダ側はこれを「サプライチェーンの強靭化」と説明するが、Wingtechはこれを明確な「脱中国化」の動きと捉えている。

親会社のコントロールが効かない間に、資産や生産能力を中国国外へ移転させ、中国工場(Dongguan等)を単なる「抜け殻」にするつもりではないか――この疑念こそが、Wingtechが徹底抗戦を続ける最大の動機となっている。

産業界への衝撃:なぜ「Nexperia」なのか

一般消費者にとってNexperiaの名は馴染みが薄いかもしれないが、産業界において同社の製品は「産業の米」そのものだ。

必須不可欠な「ファウンデーション・チップ」

Nexperiaが製造するのは、最先端のAIチップではない。トランジスタ、ダイオード、MOSFET、ロジックICといった、いわゆる「汎用チップ(Commodity Chips)」や「ファウンデーション・チップ」と呼ばれる分野で世界トップシェアを誇る。

これらは、電気で動くあらゆる製品に必須の部品だ。特に自動車においては、ウィンドウの開閉、ブレーキ制御、ライトの点灯、バッテリー管理など、数百から数千個単位で使用される。

製造フローの分断: Nexperiaのビジネスモデルは、欧州(ハンブルクやマンチェスター)で「前工程(ウェハー製造)」を行い、それを中国やマレーシアの工場で「後工程(組み立て・テスト)」を行って世界に出荷するというグローバル分業で成り立っている。

現在の危機: オランダ(欧州)と中国の対立により、この「欧州→中国→世界」という動脈が遮断されつつある。オランダ側がウェハーを送らなければ中国工場は稼働できず、中国側が出荷を拒めば完成品は顧客に届かない。

自動車メーカーの悲鳴

この影響はすでに顕在化している。Volkswagen(VW)、BMW、Mercedes-Benzを代表するドイツ自動車工業会(VDA)は、「政治的介入による混乱は解決しておらず、2026年第1四半期にかけて供給リスクが高まっている」と警告を発した。日産自動車やボッシュ(Bosch)からも同様の懸念が示されている。

最先端チップ不足は特定の高度な機能に影響するが、Nexperiaのような汎用チップの不足は、「車が完成しない」「工場ラインが止まる」という致命的な事態を招く。2021年の半導体不足の悪夢が再来する可能性は極めて高い。

今後のシナリオと深い洞察

筆者は、この対立が短期的に解決する可能性は低いと分析する。双方の主張が「法と主権」という譲れないラインで衝突しているからだ。考えられるシナリオは以下の3つである。

シナリオ1:Wingtechの完全復権(可能性:低)

中国側の要求通り、オランダ政府と裁判所が全ての制限を撤回し、Wingtechが経営権を取り戻すシナリオ。しかし、欧州における経済安全保障の潮流や米国の圧力を考慮すれば、オランダ政府がここまで完全に屈服することは考えにくい。

シナリオ2:企業の「分割」または「強制売却」(可能性:中)

対立が解消できない場合、Nexperiaの欧州資産と中国資産が法的に、あるいは実質的に分裂する可能性がある。最悪の場合、オランダ政府が更なる法的措置を講じ、Wingtechに対して欧州部門の売却を強制する展開もあり得る。これは事実上の「国有化」または西側資本への強制譲渡を意味し、中国との通商関係に決定的な亀裂を生じさせるだろう。

シナリオ3:EU仲介による「管理された妥協」(可能性:高)

今回、中国がEUを巻き込んだことで最も現実味を帯びてきたのがこの道だ。EUが仲介に入り、Wingtechの株主権を一部回復させつつも、機微な技術やデータへのアクセスには制限を設けるといった「手打ち」が行われる可能性がある。しかし、相互不信が極限まで高まった現状で、現場レベルの協力体制がスムーズに再開できるかは大いに疑問が残る。

経済安全保障のジレンマ

Nexperiaの事例は、グローバル化の象徴であった半導体サプライチェーンが、地政学という巨大な力によって引き裂かれる様をまざまざと見せつけている。

オランダ側にとっての「安全保障」は、中国側にとっては「強奪」であり、企業にとっての「リスク分散(マレーシア投資)」は、親会社にとっては「背信行為」となる。この認識のギャップはあまりにも深い。

一つ確かなことは、政治家や経営陣が会議室で言葉の戦争を繰り広げている間にも、工場のラインは止まりかけ、世界中の製造業がそのツケを払わされようとしているという事実だ。Nexperia危機は、経済合理性と国家安全保障が両立し得ない時代の象徴的な事件として、長く語り継がれることになるだろう。

Sources