ベルリンの壁崩壊から間もない東欧の小国に、先進国企業が量産工場を構える例はほとんどなく、この投資は当時としても異例だった。小型車の欧州向け生産拠点としての役割を担いながら、この工場はハンガリーに自動車を量産するという経験を初めて根付かせることになる。
同じ頃、ハンガリーにはドイツの自動車メーカーであるオペルの部品拠点も進出。ダイムラー系サプライヤーやタイヤメーカーが生産を開始することになる。いずれも巨大プロジェクトではなかったが、外資が静かに根を下ろし、工場、雇用、技術が少しずつ蓄積されていった。
ハンガリーのエステルゴムにあるスズキの工場に並ぶスズキ車。REUTERS/Bernadett Szabo
その後ハンガリー政府は、2017年に法人税をそれまでの19%から9%へ引き下げ、外資の迎え入れを更に強化していった。工業団地とインフラを整備し、規制もできる限り削った。大学は工学系教育を強化し、企業と人材の循環をつくるための制度が整えられた。
ハンガリーの地に、自動車産業にまつわる欧州と日本企業が少しずつ工場を増やし、部品と人材が国内に溜まっていく。今ではハンガリーに進出している日系企業は160社以上に及ぶという。

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プレミアムブランドであるアウディは1998年、完成車の生産をハンガリーで始める。
エンジン、トランスミッション、組立、そして研究開発までを担う巨大工場を作り、ドイツで長年積み重ねてきた生産基準をそのままハンガリーで再現した。加工精度、工程管理、物流効率、品質保証。こうした「ドイツ水準」がハンガリーで実現できるようになった。
さらに世界最大の自動車部品サプライヤーであるドイツのボッシュ社が2018年ハンガリーに研究開発拠点を構えた。R&Dセンターは製造基盤があるだけでは成立しない。試験設備、ソフトウェア人材、大学との連携、そして高度な加工が実際に行われている現場が必要になる。東欧でそれらが揃う国は限られているが、ハンガリーは2018年時点でその条件を満たしつつあった。多層化したサプライチェーンの蓄積が、開発投資の呼び水となっていた。
そして2020年代、ここに電動化という巨大な変化が襲ってくる。
テスラやBYDなど、世界に電動化の波が押し寄せている。© Vincent Isore/IP3 via ZUMA Press
EVはエンジン車とは違い、国全体に求めるものが桁違いに多い。膨大な電力、化学産業としてのバッテリー工場、ソフトウェアの専門人材、衝突・耐久試験場、重量物を短距離輸送できる物流インフラ。EVはもはや単なる「車の技術」ではなく、「国としての総合力」を要求する産業なのである。
この条件に、ハンガリーはたまたま合致していた。
例えば、バッテリー工場には莫大な土地と水、そして安価な電力が必要となる欧州の西側でこの条件を満たすのは難しい。ただ、ハンガリーでは可能だった。さらに環境許認可は西欧に比べて迅速、賃金はドイツより安く、EU域内輸送は自由だ。
ハンガリー政府は2024年「National Battery Strategy 2030」と言うバッテリーを中心に国の産業構造を再設計する計画を打ち出した。CATL、Samsung SDI、BYD、Vartaといった世界最大級のバッテリー企業に対して、土地、税制、補助金、物流インフラまで丸ごとパッケージで提供するという。
この対応力はEU内でも突出しており、他国には真似できないスピードだった。その結果CATLの1兆円規模の工場やBYDの欧州工場の建設。さらに、韓国Samsung SDIも950億円を投じてバッテリー工場を増設するなど、EV生産に魅力的な環境がさらに整っていった。
ドイツ本国のEV疲れ──なぜドイツではなくなったのか
BMW公式メディアサイト
ハンガリーにEVという新たな産業の“地層”が静かに積み上がっていく一方で、ドイツ本国では別の変化が進んでいた。こちらの変化はもっと分かりやすく、そしてもっと深刻だ。要するに、ドイツは今の自動車づくりに必要な前提を、かつてほど満たせなくなっている。
その兆候は、エネルギー危機からはっきりと姿を現す。ロシアからの天然ガス供給が絞られたことで、ドイツの電力コストは欧州でも突出して高くなった。製造に使う電力が1.5倍、2倍となれば、もはやドイツに生産拠点を置くことはブランドの論理だけでは正当化できなくなる。とくにEVやバッテリー生産は電力を食う。エネルギーの高騰は、自動車産業にとって致命的だった。
さらに、ドイツの自動車生産は長年「人件費の高さ」という両刃の剣を抱えていた。
熟練工による品質管理は世界でもトップクラスだが、その賃金は欧州の中でも圧倒的に高い。ICE(内燃機関)車の時代は、それでも成り立っていた。エンジンを中心とした高精度加工と試験が必要で、そのノウハウを持つ労働者が国内に揃っていたからだ。
EV充電スタンドで充電するアウディのEV。Michael Nguyen/NurPhoto
ところがEVは、その構造を大きく変えてしまう。EVはエンジンを持たず、加工精度はエンジンより低くて済む部分も多い。その代わり、バッテリーやパワーエレクトロニクスなど、労働集約より設備集約の産業へと変容した。つまり、高賃金のドイツでやる必然性が薄れてしまったのである。
追い打ちとなったのは、中国の存在である。
現在、ドイツ車メーカーにとって、中国は最大の市場だ。フォルクスワーゲンは販売の約4割が中国、BMWも販売・利益ともに中国が最も大きい。メルセデスにとっても中国はもっとも収益性の高い地域だ。要するに、中国で売れなければドイツの自動車産業は成り立たないと言っても過言ではない。
ところが、その中国市場が急速に変わっていく。
中国では世界最大規模のEVシフトが進み、補助金、規制、都市政策までがEV中心に再編され、BYDのような現地メーカーが猛烈な勢いで拡大した。販売競争は内燃機関車よりもはるかに激しく、ICE車(内燃機関車)は販売が急落し、ドイツ御三家は中国で販売台数を落としている。最大市場で利益が目減りすれば、企業全体の収益は揺らぐ。
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結果、欧州市場向けEVのコストを徹底的に下げることが避けられなくなったドイツメーカーはEVの生産地をハンガリーに求めていったわけだ。
ここで興味深い現象が起きる。ドイツ車のライバルである中国メーカーも同じくハンガリーに目をつけたのだ。
EUでは域内の産業を守るために中国産EVに最大45.3%の関税が課せられる。中国メーカーはその関税を避けるため、欧州内に製造拠点を作るインセンティブがあった。
ハンガリーはEU加盟国でありながら、中国政府が主導する一帯一路政策に積極参加し、中国企業の大型投資を歓迎してきた。実際、CATLやBYDといった中国系のバッテリー企業を積極的に誘致している。
つまり、ハンガリーはドイツのEV産業の中心地という側面だけではなく、中国の欧州進出の入口としての顔も持っているのだ
世界が揺れてもハンガリーの自動車産業は揺れないワケ
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ハンガリーという国を語るとき、どうしても政治の雑音が耳に入る。
確かに、この国には政治的腐敗の影がつきまとい、EUとは価値観を巡って衝突を繰り返してきた。外から見れば“極右”“親ロシア”というレッテルが貼られ、扱いにくい国のように映るだろう。しかし、その印象はハンガリーのいち側面でしかない。
ハンガリーがときにロシア寄りと誤解されるのは、イデオロギーではなく徹底した自国第一主義ゆえだ。ハンガリーは山も海も持たない小さな内陸国であり、エネルギーの多くをロシアからのパイプラインに頼らざるを得ない。冬を越すための暖房から発電用ガスまで、途切れれば国が止まる。その現実の前では、ロシアと全面対立するという選択肢ははじめから存在しない。
一方で、軍事的にはNATOのど真ん中にいる。
ロシアの影響圏に入るつもりなどまったくなく、安全保障は完全に西側に委ねてきた。つまり、エネルギーは東、軍事は西という二重回路を維持せざるを得なかったのである。外から見ればわがままにも映るこの姿勢は、実際には内陸国として生き残るための手段にすぎない。
またウクライナとの緊張関係も誤解されやすい。第一次大戦後の国境線変更で、多くのハンガリー系住民が国外に取り残された。ウクライナの西端であるザカルパッチャに住む彼らのハンガリー文化的権利を守ることを、ハンガリーのオルバン政権は国家の責務としてきた。しかし、それがハンガリー系ウクライナ人にもウクライナ人としてのアイデンティティを持たせたいと考えるウクライナ政府との摩擦を生んでおり、戦争以前から両国は対立関係に置かれていた。
つまり、ハンガリーが政治的に騒がれてきた理由の根には、外から貼られたラベルではなく、地理と歴史からくる自国の論理がある。
握手を交わす、ハンガリーのヴィクトル・オルバン首相とウクライナのゼレンスキー大統領。2024年7月2日撮影REUTERS/Valentyn Ogirenko TPX IMAGES OF THE DAY
だが、こうした複雑な政治事情は、産業の不安定さを意味しない。むしろ産業の領域に限って言うなら、ハンガリーほど揺れない国は珍しい。
NATO加盟国としての軍事的安定、EU単一市場という巨大な販路、外資誘致に全振りした税制と補助金、迅速な許認可、加工からバッテリー生産までを地続きに揃えられる工業団地。そして中欧の交通の結節点という地理的利点。これらは政権が誰であっても揺らぐことのないインフラであり、EV時代の生産拠点に求められる条件のほとんどが、すでにハンガリーには揃っている。
その一方で、ドイツ車メーカーは大きな岐路に立っている。
エネルギーコストの高い本国は自らの優位性を失い、中国市場では激しいEV競争に晒され、ブランドの重さで押し切れた時代は終わりつつある。「Made in Germany」を支えてきた前提が、一つずつ静かに剝がれ落ちている。
これからドイツ車は、どこへ向かうのだろうか。
もはやその答えは、ドイツ国内だけを見ていても見えてこない。その行方は、ハンガリー、そしてEVサプライチェーンという新しい地図の上に描かれ始めている。
