公開日時 2025年11月08日 05:00
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山城博さん
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琉球新報朝刊
腕っぷしの強さと器量の良さが街の気質に合った。時は昭和。活気に満ちた商業都市として栄える1978年の大阪へ。乗りときっぷの良さが持ち味の街の雰囲気はすぐになじんだ。「小さい頃から大きいところで勝負したいという思いもあったからね」。名護市の故郷を離れて、はや40年以上。大阪で性根を据えて起業。建設の解体事業を始めて、今は企業グループ会長を務める。
7人きょうだいの5番目で三男坊。幼少の頃は「田畑を耕して、ヤギのための草刈りを一生懸命やっていた」。脳裏に焼き付く思い出だ。高校を卒業すると、故郷は長男、次男に託し、まず向かったのは岐阜県。「家計を助けようと給料のいい運輸業者へ集団就職した。一家の稼ぎ頭。仕送りもせんといかん役目ですわ」。講習を受けて配属されたのが大阪だった。
仕事と同時に若さも手伝ってプロボクサーも目指した。「体も鍛えないといかん。具志堅用高先輩にもあこがれた」。ライセンスを取得し、西日本ジュニアライト級新人王に輝いた。
一方で絶ちがたい思いもあった。高校で専攻したのが建築だった。図面を見ながら建造する醍(だい)醐(ご)味(み)が自らの初志に合った。その向学の志を貫こうと「建築なら何でもいいと思い、大工になった」。そのうちに意外な仕事を思いつく。「解体だった。それが向いていた」。当時は同業がほぼなく、「大阪でも1、2番の業績を上げた」と言う。
建築業だと創業100年の老舗クラスが多い。しかし逆にビル解体となると業者は「ほとんどない。僕らが最初くらい」。持ち前の商才と商魂、それに持ち前のリーダーシップが味方した。組織として山城興産を立ち上げたのが1987年だ。第1次バブル景気に突入するタイミングである。「いろいろ苦労も試練もあった。でも深く考えると面白い仕事やなと」。99年に「翔慶」、2005年に「未来」を設立し業容は拡大した。
「若いし燃えていたね」。歩んだ道をしんみり語った。沖縄から5万円を握りしめてほぼ裸一貫、大阪で挑戦し続けた。時には30億円を超える工場への設備投資にも挑んだ。
還暦を迎えた60歳の頃。昼夜を問わない仕事がたたって体を壊した。実務を子どもに継ぎ見守る立場に。「自分の中ではやりきった」
ふるさとへの一言を聞いた。「内地の良さ、沖縄の良さを見つけ、新しくいい文化をつくりあげれば、いい仕事につながる」。故郷が最近「懐かしく、いとおしい」と言う。(齋藤学)
